十字架を罵った人々

❖聖書個所 マタイの福音書27章32節~44節     ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです。」ルカ23章34節


◆(序)この場面について

 教会暦によると今年は29日から受難週に入り、翌主日、5日が復活記念日、イースターである。来週説教の山口師も十字架について語ると思うが、聖書の一番の中心であることから私も本日、主の十字架について語るように導かれている。

 さて、先ほど読んでいただいた個所には、十字架を見つめる三様の人たち、人間像が記されている。第一に、十字架につけられた主をからかっているローマの兵士たちに現れている人間像である。彼らは裁判の時から徹底的に主を蔑み、からかっている。(27節以下) 第二は、頭を振りながらイエスを罵り、「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救って見ろ。十字架から降りて来い。」(40節)と言った道行く人々に見られる人間像である。(39節) そして第三は、そんな群衆たちといっしょになって主をあざけった祭司長たち、律法学者、長老たちに代表される人間像である。十字架を見つめるこれらの三様の人々はどの時代でもどの国でも変わらない。今日でも人々は十字架をめぐって同じ反応をする。


◆(本論)三様の人間像

①まずローマの兵士たちに見ることができる人間像であるが、一言で言うと現実の力しか信用しない者たちである。主が裁判を受けた時からさんざんからかい、蔑んでいる。十字架刑を受けている男は、ユダヤ人の王であると自称する者であるとからかい、面白がっている。

 彼らはこの国を支配しているローマ帝国の兵士としてユダヤ人に対する優越感を持つ者たちであった。兵士たちもこの国がはるか昔から唯一の神を信じ、礼拝してきたことを知っていただろう。けれどもいくら宗教的に特別な民族だとしても、彼らの目に映る実際の姿は強大なローマ帝国に従属させられている姿であった。それゆえ、兵士たちはユダヤ人を自分たちより価値が低い者とみなした。ことに犯罪人として処刑される者についてはなおさらであった。そのため、どれだけ神の真理を示す、人生を変える存在と言われても真面目に受け止める姿勢はさらさらなかった。彼らにとって人生の真理、基準、価値は自分たちの偉大な国、ローマ帝国であった。そのローマの兵士としての立場が自分の人生の支えであった。そんな彼らから見るならば、「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞きしたがいます。」(ヨハネ18章37節)という主は、最も蔑み、からかう対象であった。

 これら兵士たちから十字架について、どんな人間像が見えるだろうか。自分が属している立場、自分が持っている現実の力しか信じない人々である。現代でも多く見られる。聖書の福音を聞く機会があっても、世に置ける立場や持っている力のゆえに兵士たちと同じように恰も自分が一段高く立っているかのように神のことばを信ずる者を蔑み、嘲る者たちである。

 しかし、人間は社会的立場が全てではない。自らの存在の意味を問う霊的存在でもある。社会的立場ばかり考え、自らの霊的状態を無視し続けるならば、必ず手痛い報いを受けることになる。多くの人々が誇りとしていた仕事、子育てが終わり、また老いて死に向き合う時になって自分の人生は何のためであったのか分からなくなったと言っている。


②続いて十字架を巡る第二の人間像は、39節にあるように頭を振って主を罵りながら道行く人々である。この人たちから私たちはどのような姿を想像できるだろうか。処刑場は特別の場所であるからこの人々はたまたまそこに通りかかった者たちではない。主が処刑されると聞いて見に

来た人々である。最近エルサレムに堂々と現れたイエス、これまでの宗教の指導者と全く違うことを語り、不思議なわざを行い、各地で評判となった男がどんな最後を迎えるのか見に行こうと思って来た者たちである。この人々は主がつけられた十字架をただ黙って見ていたのではなかった。主を正気を失った者のように見、主のすべてを否定し、悪態をつき、罵っている。

 この人々から想像できるのは、自分の考えを持たない、流されやすい、また人の表面しか見ない人々である。誰かがイエスという方は律法学者、祭司たちとは違い、上よりの権威を持っておられ、またどんな生き方をしている者であっても真の平安と希望を与えることが出来る方だと言えば主のおられるところを熱心に探し求め、反対に実はイエスという男はこの国において良からぬことをたくらみ、各地で騒ぎを起こしている人物だと言えば、以前に聞いた主のことばやすばらしい御わざのことをすっかり忘れて扇動されて一緒になって主をあざけり、罵る人々である。

 福音書の中で記されている主と出会い、救われた、真正面から主のもとに行った者たちと違い、一歩も二歩も離れて主を遠巻きに見ている者たちである。根なし草のように、自分がどこから来て、今、どこにいて、どこに行こうとしているのか、分からなくなっている姿である。それゆえ、主が十字架におかかりになっている意味など知ろうとはしない。自分に関係があることだと考えようとはしない。現代でも主イエスの十字架の死について同じような反応をする人が多くいる。自らも真の希望も平安もない生き方をしていながら、神の御子の十字架の意味、目的を伝えると嘲り、罵る人々である。周りを恐れ、周りに流され、自分自身を見失っている姿である。


③十字架を巡る第三の人間像は、41節にあるように十字架につけられているイエスを見上げて嘲っている祭司長、律法学者、長老たち指導者たちである。主が神の国の到来を宣べ伝え始めて以来自分たちの語っていることが否定されたと思い、また主が神の子と名乗ることに対し、神を汚していると警戒し、激しく憎む者たちであった。そのような思いを持っていたことから十字架を見上げていた彼らには憎む者を処刑することができる、妨害する者を葬り去ることができるという勝利感があった。そんな彼らから想像できる人間像は自分たちこそ人生の真理を知っていると高ぶっている、活躍し、人々から評価を受けている者たちに多く見られる姿である。立場も知識も経験もあるが、福音に触れる機会があってもこの国にはこの国の伝統、価値観がある、聖書は外国のものであるとはじめからはねつける人々である。賢く、思慮深く、人々と良い関係を持って生きているから成功者となっているが、真の平安も希望も知らない。


④以上長々と見て来たが、人は神が与えてくださった、生きるうえにおいて根本問題である罪の赦しのための御わざである十字架に対しても頑なである。むしろ、嘲けったり、自分には関係がないと思ったり、或いは憎しみを持って見る。それは今日でも変わらない。私たちも聖霊によって十字架の本当の意味、目的を知るまでこのいづれかであった。そんな中で是非、知って欲しいのは、こんな人の姿に対する神のお姿である。同じ十字架の場面、ルカ23章34節の十字架上の祈りである。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分で分からないのです。」主は、直接、手と足に太い釘を打ち込まれて非常な苦しみの中、ご自分をからかい、嘲り、罵った者たちのために、彼らは自分たちがしていることの本当の意味を知らない者である、彼らの態度の中心にあるものこそが人間の一番の問題、罪である、わたしはその彼らの人生を暗いものにし、不安にし、恐れをもたらしている罪と死の支配から彼らを救うために来て、身代わりとなっていると言われたのであった。


◆(終わりに)十字架を誇ろう

 使徒パウロは元々、人間的に誇るものがいっぱいあった。(ピリピ3章) しかし、主の十字架の死と復活を知って以来、自分にはこの十字架以外に誇りとするものが決してないと声高く言う。(ガラテヤ6章14節)どんなものを持ってしてもこの十字架に代わるものがないと言う。なぜなら、主が受けてくださった十字架(死と復活)は、人に新しい人生をもたらしたからである。(第一ペテロ2章22節~25節) 今も多くの人々が追い求めている人の幸福は移り変わる。しかし主の十字架がもたらした神の祝福は決して変わることがない。いつでもどこにおいても十字架を誇る者でいよう。