駄目と思わないで

❖聖書個所 ガラテヤ書2章11-21節        ❖説教者 川口昌英 牧師

❖中心聖句    「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではな

 く、キリストが私のうちに生きておられるのです。」   ガラテヤ人への手紙2章20a


◆(序)ガラテヤ書の目的、背景

①初代教会において大きな問題となっていたことの一つ、福音と律法、救いと律法の問題について旧約聖書を受けて聖書全体から神の御心を明らかにする。


②当時のガラテヤ教会の様子

・「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんな

にも急に見捨てて、ほかの福音に移っていくのに驚いています。」1章6節

・「ああ、愚かなガラテヤ人、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に

あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけを聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理が分からないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」3章1-3節

・「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」4章19節

・「あなたがたはよく走っていたのに、だれがあなたがたを妨げて、真理に従わなくさせたので

すか。」5章7節


③注目すべきは、この問題を巡っての割礼派(イエス・キリストを信じても神の民としての印である割礼を始め、律法を守らなければならない)との論争は、エルサレム会議 (使徒の働き15章)の直後であったことである。(ガラテヤ2章1-10節) その問題についてはっきり結論が出ているにもかかわらず、同じことが繰り返されている。これは救われた者と律法の問題は根深い事柄であったことを示す。ガラテヤ人への手紙は、神の義、救いはどのように実現するのか、そして救いの恵みを受けた者は、どのように生きるべきであるのかについて明確にしようとする。

◆(本論)神の義、救いはどのように実現するのか。

①律法による義を主張することは、救いの御わざの歴史にも人の実態にもあわない。キリスト者としての信仰は、御霊の働きにより、ただ主を信じたことによって始まったのであり、律法をおこなったからではない。(3章3節、ヨハネ15章16節、第一ヨハネ4章9節~10節) 信仰の父祖、アブラハムの場合もアブラハムが神を信じたことに対し、義と認められた。律法は、その後、約四百年経ってモーセを通して与えられた。(3章16~17節) 従って、律法による義を主張し、それに固執することは元々、神がなされた御わざに反する。

 律法は、神が与えられた契約の中で示されたように、神の民としての生き方を示す、守るべき大切なものであるが、それは究極的に、救いの御技の歴史から言うならば「違反を示すため」(3章19節)のものであり、「私たちをキリストに導くための養育係」(3章24節)である。救いを実現するものではない。また実際にも人は真の意味で律法を守ることができない。救いの恵みを受けた者の霊的状態を示しているローマ7章14節~25節にいうごとく、気をつけていれば律法を守ることができると考えるのは、自分の罪深さを知らない姿である。


②神が与えられたのは、信仰による義である。

 信仰による義は、初めからの神の御心である。上述のごとく、信仰の父祖、アブラハムの場合もそうであった。(3章6節) では何のために律法が与えられたのか。神は律法によって、人の心を砕き、心を整えられる。律法には本来の目的、意味がある。それを誤解してはならない。神は律法か、信仰かと言っているのではない。むしろ、律法によって、人を福音を導くのである。(バプテスマのヨハネが主イエスのために道を開いたように) 福音を受け入れることは、律法を無視することではない。

 律法は福音に至る段階である。なぜ神は、こんな段階を踏まれるのか。信仰の本質を悟らせるため。罪深さを知らせ、ただ神にのみ信頼し、神からの希望を持って生きるという信仰の本質を深く知らしめるため。主を受け入れ、信じた後も律法を守らなければ神からの完全な義が与えられないというのは、律法の役割も福音の真の意味も知らない姿である。


③主の十字架は、律法の役割をもすべて含む、完全な神の義を実現した。

 主の十字架は、一人ひとりのための十字架、本来は私たちが受けなければならない罪の刑罰を受けてくださったものである。すべての人が受けねばならない罪の刑罰の身代わりであった。罪を認め、主の十字架が自分のためであったと受け入れるならば、いかなる罪の指摘があっても、そのための刑罰が全て支払われているのであり、信ずる者は全く新しくされ、今や主が私たちのうちに生きる者となっている。それゆえ律法の指摘を少しも恐れる必要がない。私たちはこの完全な神の義をうけた者として、律法ではなく「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によ」って生きるのである。(ガラテヤ2章20節)


◆(終わりに)

 著者パウロは、手紙の終わりにおいて、再び、律法による義を主張する者たちを意識して「しかし、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(6章14節)と十字架の死と復活こそ信仰の中心であることを強調する。


 本日、話して来たことは、神学論争ではない。21世紀、この国に生きている私たちに深い関係があることである。実際、私たちには律法はないが、自分自身の生活を見て、あれも出来ない、これもしていないと自分を責めながら信仰生活を送るのではなく、こんな足りない者を、罪深い者を主は愛して下さって、十字架まで受けて下さったのだ。だから、足りなくても、弱くても、自分や周りを見つめるのではなく、主を見上げて、感謝と喜びと信頼を持って生きて行く者となることが大切。それが、信仰による義を持って生きること。

 

 教会内だけでなく、世界史的にも重要な意味を持つ宗教改革の扉を開いたルターも、この信仰による義という事が分かった時、彼は生まれ変わった。喜びと力が湧いて来たのだった。そして、主のために大いなる働きをなした。信仰による義を深く知ることは、人生を変え、大いなる力をもたらす。そして、教会を根底から喜びと平安と希望に溢れたものに変える。この信仰による義を深く受けとめている教会には礼拝にも交わりにも奉仕にも主にある深い喜びと平安が満ちている。反対にそれが受けとめられていない教会には比較や裁きがたえず噴出している。主を信ずる者はうわべではなくて、いつも本質を見つめるべきである。

 私たちの信仰の中心はここにある。自分が立派であるかように見せるために頑張る必要はない。自分に向けられている神の愛をただ感謝し、受けとめ、従って行けばよい。