水ためと泉

❖聖書個所  エレミヤ2章13節           ❖説教者 川口昌英牧師

❖中心聖句  わたしの民は二つの悪を行った。涌き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。

                       エレミヤ2章13節    

❖説教の構成

◆(序)この個所について

 讃美伝道礼拝の週である。本日のエレミヤ2章13節は、一口に人が生きるうえにおいて信仰が大事と言っても、どんなものでも良いというのではなく、天地万物、又人を造られた真の創造主を信ずることが大切と言われている個所である。人が自分のために作った神々ではなく、すべてを造り、今も治めておられる真の神を恐れ、従うことが大事と言われている。

 始めにエレミヤ書について簡潔に説明すると、エレミヤはBC.650年頃、エルサレム近くの町、アナトテで祭司の家庭に生まれ、自然を愛する柔らかな感性を持つ者として成長し、同627年に神のことばを人々に伝える預言者として召された。その時代、神の御心を伝えるために選びの民、「宝の民、聖なる国民、祭司の王国」(出エジプト19章)とされていた母国は、神に背き、霊的に崩れ、内外ともに困難に遭遇していた。北王国イスラエルを滅亡させたアッシリヤの力は既に失われていたが、北東にはバビロン、南にはエジプトという二大勢力に取り囲まれ、常に脅威にさらされていた。

 エレミヤは母国がそんな危機的状態にある時に、国の最後の五人の王たちの治世の時代、約40年間に渡って、来るべき患難について警告し、神に立ち返るように訴えた。

 エレミヤ書を読んでいるとエレミヤの戦いが孤独な戦いであったことがよく分かる。どれだけ神の裁きが下される、悔い改めて神のもとに帰れと叫んでも、人々はエレミヤよりも神は我らを守ってくださる、エレミヤの語るようなことは決して起こらないと言った偽預言者を信じ、エレミヤを迫害、痛めつけた。特に、エレミヤが国民に対して、神が裁きをくだされる、捕らえ移されていくバビロンにおいて生活の基盤を造り、バビロンに仕えよと主からの預言を語ったことを母国を裏切った、売国奴であると激しく非難し、憎み、凄まじい暴力を加えた。涙の預言者と言われる所以である。

 しかし、エレミヤの真骨頂は、そんな絶望的な中でも民たちに希望を伝えたことであった。これまで話したように、エレミヤは神に背き続ける母国に対して、(中にはヨシヤ王のように神殿のきよめなど宗教改革に取り組んだ王もいたが、ヨシヤが死ぬやすぐに元に戻った)、神からの厳しいことばをそのまま、割り引くことなく語ったが、ただ破壊を伝えたのではない。その厳しい裁きの中心にあるものを人々に伝えた預言者であった。有名な29章11節から知ることができる。(朗読) 特に、バビロンが最後の攻撃をして、ユダの指導者すべてが連れて行かれ、国中が混乱の中に陥った時、彼は神が約束された希望を語った。(29章14節) 

  このようにエレミヤは国が大きく揺れていた時に、神に忠実に仕えた預言者であった。


◆(本論)エレミヤは神を忘れてはならないと警告した

①本日の聖書個所、2章13節は、そんなまことの神を捨てて自分たちのためにいろいろな神々を拝んでいる民たちの姿を告発している個所である。水が豊富な地方においても、「わき水の泉」とか「水ため」という表現が意味することは分かりやすい。聖書の地域は概ね乾燥地帯であり、上質な水の確保は生きるうえにおいて非常に重要であったから、一層、その意味が伝わった。それゆえ、ここに言うようにわき水の泉を捨てて、水ため、しかも壊れた水ためを掘ることの愚かさはこれを聞く者たちにとって深く響いたものと思われる。

 では、なぜ、主はわき水の泉であり、反していろいろな神々は水ため、しかも壊れた水ためと言われているのだろうか。その答えはそんなに難しくない。

 主が涌き水の泉と言われているのは、主のもとに行くとき、誰であっても、これまで何をもってしても埋められなかった心の空白、深い渇きがいやされるからである。どのような民族、国籍であっても、どのような過去を持つ者であっても悔い改め、(今まで背を向けて生きて来たことを認め、罪を告白し、生きる方向を変えること)、主のもとに行き、これからは主に従って生きることを決断するときに、罪の赦しが与えられ、新しく生きて行く希望と力が与えられる。

 なぜならすべての人が生れながら罪の性質をもっているが(ローマ3章10節~12節)、本来は神によっていのちの息が吹き込まれ、生きるようになった、神のかたちを持つ存在であるからである。(創世記1章26節~27節、2章7節) 

 このように神を基準とし、神と親しい交わりを持ち、応答する存在として人は造られていたが、3章に記されているように自分が善悪の基準、世界の中心になることを望み、いのちを与えた神に背いた結果、罪と死の支配の中で生きるようになり、本来の生きる目的も喜びも失ったのである。それゆえ、伝道者の書において著者ソロモンが求道の後語っているようにどんなに栄誉を受けても、どんなに意義ある仕事をしても、どんなに快楽を得ても、神のもとに帰らなければ真の平安を得ることができないのである。

 神との契約により(創世記12章、出エジプト記19章) 全世界に対して選民とされていたユダの人々はエレミヤの時代、自分たちに与えられていた使命を忘れていた。彼らは、後に救い主としてこの地に来られた主イエスが言われた「永遠のいのちへの水」(ヨハネ4章14節)を湧き上がらせる泉である主を捨てて、周辺の国々と同じように、自分たちの欲望、むさぼりが中心にある神々、「壊れた水ため」を拝んでいたのであった。収穫物のための天候を司る神、バアルを始めとして、戦いの神、そのほかの神々の神殿を造り、祀っていた。


②本当に不思議である。水が大変に貴重であることを知っている者たちが、わき水の泉を捨てて

水ため、しかも水を貯めることができない壊れた水ためを掘るような大変に愚かなことをしているというのである。なぜ、人々はこんな愚かなことをするのか。人のうちにある深い空白、渇きが満たされることではなく、目の前にある渇きが満たされることばかり求めたからである。彼らにとっては、自分たちが信じ、従う神は真の神であるかどうかよりも今の自分たちに幸福を約束してくれるかどうか、豊作になり、商業を盛んにし、国を豊かにしてくれるかどうか、敵との戦争に勝利をもたらしてくれるかどうかが大切であった。しかし、その結果はどうであったか。身分の低い者から高い者までみな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っていたのである。そして、神にある喜びも平安も希望も失っていたのである。


◆(終わりにあたって)

  この2章13節のことばは、エレミヤの時代のユダの人々だけではなく、あらゆる時代のあらゆる人々について言われていることばである。同じように水があるように見えてもなんでも良いと考えてはならない。一方は人を新しくし、生きる力と希望を与えるが、一方は一層、自分にこだわるようにし、不安と恐れを煽る。私たちが帰るべきところはわき水の泉であるまことの神である主のみである。救い主として来られた主は「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37節~38節)と大声で呼びかけている。あなたは、真のわき水の泉を捨てて、水ためを求めているのではないか。今、自分を喜ばせることばかり求めて真の幸い、祝福を見失っているのではないか。人生の祝福はまことの神に帰ることにしかない。