この方以外に救いはない

聖書個所 使徒の働き41~22節     説教者 川口昌英 牧師

中心聖句 この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。  使徒の働き412

 

説教の構成  

()この個所について

 この場面は、直前の、エルサレムの多くの人々に深い印象を与えた出来事、生まれつき足なえであった40才あまりの人をペテロとヨハネが癒したことから端を発している。その出来事があまりにも鮮やかであったことから多くの人々が使徒たちのところに来て、キリストの福音を聞き、主を信じるようになった。

 人々の心が波のように動き、ペテロとヨハネなど使徒たちが伝える福音を受け入れていく様子に、議員たちは動揺し、その活動を力で抑えようとした。あの者たちは人々を惑わし、国を混乱させていると告発し、当時のユダの最高行政機関であり、裁判機関であった70人からなる議会の真ん中に立たせ、糾弾しようとした。議員たちは宗教の指導者であったばかりでなく、ローマ帝国から一定の自治の権限を受けていた、民衆から恐れられていた者たちであった。そんな力ある者たちから批判され、攻撃をうけながら、主の復活も聖霊も知らない頃は、彼らをとても恐れた使徒たちであったが、(ヨハネ2019)、尋問に対して堂々と答え、福音のすばらしさを証しをしている。    

(本論) 使徒と議員たち

この裁判の場面においてまず気がつくことは、議員たちと使徒たちの対照的な姿である。非常に大きな力や栄誉を持ち、自分たちの意見を強く持っていながら、エルサレムの住民の多くが福音に対して心を開いている動きを恐れて静観するしかないと思った議員たちの姿と、他方社会的に権力も栄誉も何も持たないが、誰をも恐れず、大胆に信ずるところを堂々と主張しているペテロとヨハネの姿である。(8~1213-18節、19~20)

  本当に不思議な光景である。この世的に何も持たない者たちが信ずることを真正面から主張しているのに対し、力を持っている者たちが何も言うことが出来ないでいる。

 使徒たちが恐れないで福音を伝えている理由について、聖書は「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて」と記す(8) 主のお約束の通り、使徒たちは聖霊によって慰められ、励まされ、強められ、真理を証しし、救い主の栄光を現しているのである。(ヨハネ167~14)

 以前に使徒たちが、生涯、人をとる漁師になるという主に従う決断をしたことについて、人生には見える現実と見えない現実がある、そして罪や死と言った見えない現実こそ、人間を支配し、中心にあることに気づいたからと話したことがあるが、使徒たちは実際に聖霊を与えられて(使徒2)、いよいよそれら、罪と死が人の生涯を深く支配していること、そして律法や他のどんなものによっても贖われないこと、ただ神の御子の十字架の死と復活のみが人を虚無や絶望から救い、人を新しく造り変えることを深く知るようになっていた。

 彼らは、自分たちは人間的に足りないところがあることをわきまえていたが、そんな自分たちでも主イエスの福音を語る時に、あの40才あまりの男のように、救われ、本当に人生が変わる人々が起こされていることを実際に経験していた。だからこそ、おまえたちは父祖たちの教えに背いている、人々を惑わし、社会に混乱を与えていると糾弾されても「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられて

いないからです。」(12) 「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは見たこと、聞いたことを、話さないわけにはいきません。(19~20) と言うことができたのである。

 それに対して、指導者たちは伝統、堅く律法を遵守することによって神の義を受けることが出来るのであり、あの者たちのように律法によらず、ただ主の福音を信ずるだけで救われると伝えるのは自分たちの存在の基盤を壊す考えであると危機感を持った。また使徒たちの活動がさらに広がるならば支配しているローマ帝国に反乱の思いがあると疑いを抱かせ、今よりも強い締め付けがなされるのではないかと恐れを持った。このようなことからユダの最高機関である議会として使徒たちの活動をこれ以上容認出来なかった。何としてでも使徒たちを中心とする教会の活動を封じ込めようとしたのである。そのため、ペテロとヨハネを捉えて、糾弾し、活動を阻止しようとしたが、今やエルサレムにおいて大きな影響力を持ち、堂々とキリストの福音こそが人を救うことが出来ると堂々と主張する彼らに対して何も出来なかった。

なぜ、こんな違いがあるのか。使徒たちには御子イエスの十字架の死と復活によって救いの確信があった。人がどう思うかではなく、神が救いを与えてくださったという確信があった。ペテロは次のように言っている。「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」(第一ペテロ118~21)  またヨハネも、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(第一ヨハネ49~10) と言っている。これらの言葉の根底にあるのは主イエスによって、人の一番の問題である罪が赦され、そして死の問題も解決されているという強い確信である。またその確信のゆえに深い喜び、希望があるという告白である。このゆえに、いくら権力を持つ者から脅されても揺らがなかった。

 

(終わりに)信仰の確信をかたちづくるもの

   この個所から大切なのは中心に確信があることだということが分かる。けれども、私たちはそれでこの個所の話を終えてはいけない。なぜなら、実際の教会の歴史は、ここに出てくるペテロやヨハネのようでないことが多いからである。敗戦までの日本の教会、カトリックもプロテスタントもこの使徒たちのようではなかった。確かに大変厳しい状況にあったが、ただ強いられただけでなく、むしろ進んで国家神道を基底とする当時の国家体制と一体になる信仰を展開していた側面がある。また、戦後もそのような歴史を長い間、悔い改めることをして来なかった。そして、現在も信仰をただ個人の内面だけのものにしていることが多い。何故、そうなのか。いろいろ理由が指摘されている。聖書の世界観(創造、堕落、贖い、終末) がよく教えられていないからとか、現実の社会や国家との関係が教えられていないからと言われる。 

 確かにその通りだと思う。しかし、私はそんな一段高い事柄よりも信仰の基本の問題だと思う一番重要な罪の理解の問題と思う。不道徳、不品行のみの問題として捉えられている、キリスト教は清い生活、清い生き方を指導する宗教と考えられていることである。これほど聖書の罪、福音を換骨奪胎しているものはないと思う。聖書の罪の本質は倫理、道徳の問題ではない。もちろん、関係はあるが、本質ではない。最も重要なのは、私たちの存在の問題である。創造主抜きに、創造主に背いて自分を善悪の基準として中心として生きていることである。そこに人の全ての問題の本質がある。主の福音は、福音を知ったすべての人をその暗闇、欲望の支配、虚無、思い煩い、恐怖から私たちを救ってくださる。人種、国籍、経歴、経験関係なく、すべての者に真の平安、希望を与えている。一番大切なのは、罪の赦しの意味、その恵みを深く知ることである。