教師の働き

聖書箇所 エペソ人への手紙411~16節    説教者:川口昌英牧師

中心聖句 「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」            エペソ人への手紙 412

 

説教の構成

()みことばが伝える教師。

日本の教会の課題の一つと思われる教会における教師の役割について共に教えられたい聖書が記す教師の責任は非常に重い。教師が福音の内容や信仰生活について誤った指導をすると、信じて告白する者の集まりであり、大切な使命を託されているキリストのからだである教会を混乱させる。新約聖書や教会史から明らかなように、地上の教会にはそんな例がしばしばある。

 このように教師が本来の使命を見失うならばその影響は深刻であるそれゆえ教師が主の召命に立ち、その働きの意義、目的を受けとめ、その務めに忠実に仕えることは本当に大切である

 本日は、ともすれば曖昧にされている教師の使命、役割についてみことばから確認し、そして、全体として整えられて、難しいと言われるこの国の中で主の使命を果たす教会を目指したいと思う。

始めに、よく話しているが、教師は教会に集う人々の、聖書に出てくる表現を用いるならば羊飼い、所有者でないことを再確認したい。羊飼いである主から召されてそのもとで働く者である。あらためて言うまでもないことであるかも知れないが、現実の教会では教師個人があたかも信者である教会員の人生に最終的権威を持っているかのように振舞っている例がある。みことばよりも教師の考えによって指導がなされている。一見、教師の指導によって教会がまとまっているように思えるが、しかし、そのような教師がオーナーとなっている姿はキリストのからだ、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方のみちている教会とは言えない。

   教師はあくまで、真の所有者である主に召された働き人である。人にすぎない教師自身が慰めたり、傷ついたものを包んだり、力づけることは出来ない主のみことばによって行うのである。一人ひとりが真の所有者である方の招きに応え、その方のもとに行き、悔い改め上よりの力を受け、その方とともに生きるように働く存在である。それゆえ、パウロも語っているように、本当に大切なのは、教師、働き人ではなく、(いのちを与え) 成長させてくださる神である(コリント37)     

(本論)教師の働きの内容

では教師の働きとは何か。繰り返しになるが、主によって召された人を主のことばによって真の所有者である方のもとに導きその人が悔い改めて新しく生まれ変わり、主とともに生きるように整え、主の群れ、教会、みからだの一部、主の民として生きるようになることである。

 の所有者ではないからと言ってその務めが軽い訳ではない大変に重い。教会の霊的状態は、その教会の礼拝、特に教師がみことばを語る講壇と深い関係がある。教師が神のみことばとどれだけ真摯に取り組み、伝えるようにしているかに深くかかわっている。私は、自分に与えられている働き、特にみことばの御用が大げさでなく、一人ひとりの生涯や永遠、又この国における教会の信頼性に関わっていると思うと恐ろしく感じることがある。自分の足りなさ、弱さ、なお罪の性質が残っていることをすべて承知のうえで、主がこの働きに召して下さっているということを思い、自分に出来ることをしようと決意する

 又、教会として決定しなければならない具体的な課題についても教師自身が、世の経験や知識ばかりに目を向けているなら、教会は主にある輝きや豊かさを失ってしまう。この点においても教師の責任は大きい。パウロは、誰がこの任に耐えることができようかと言っている

 

エペソ4章から教師の働きについて見て行く

 ここにおいてパウロは、はっきりした目的のために働き人が立てられていると言う。ここには教師や信者を中心にする考えはない。働き人はあくまで主の器であり、教会はあくまで主のからだであると言う。みことばから大きくそれていながら、教師が自分の立場を守るために行動したり、信者の側が教会は自分たちのものであると固執するなら、もはや主の教会とは言えない。自分たちの考えによって集まっているただの人間的集団にすぎない

 さて、この11節から16節は、新約聖書が書かれた元々のことばであるギリシャ語では一つの文章が続いている複雑な文章であるが、ギリシャ語では、強調したいことを先に持ってくるという性質があることから、この個所を見ると主が働き人を立てている理由が分かる。

 すなわち、主は聖徒たちを整え(強める、完成させる、訓練するという意)、奉仕の働きをさせ、(主の栄光のため、主のしもべとして生きるようになるため)、キリストのからだである教会を建て上げるために、働き人を召しているということが分かる。そして、その具体的内容は

みなが信仰の一致と神の御子に関する知識との一致に達している状態福音についての一致】

完全に大人になり、キリストの満ち満ちたみたけにまで達し、もはや、子どものように人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、(巧みな偽りの)教えの風に吹き回されたり、(人目を引くような)波にもてあそばれたりすることがない状態成熟、自立した状態

愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する状態主キリストと似た、キリストが満ちている姿】

になることだと言う。 

   そしてこれらを16節において要約する。主を信ずる者たちがそれぞれにふさわしく力を発揮し、互いに主を中心にしてしっかり組み合わされ、結び合わされ、成長して愛のうちにたてられるために、主にある豊かな多様性と深い一体性を持つ生き生きとした、主のご性質が満ちている状態となるために、働き人が召されていると明言する。

 このように見て来ると、働き人、教師に託されている働きは途方もないことが分かる。人々が霊的に成長し、成熟し、この世に惑わされず、主の足跡をたどるような生き方、生涯を送るために人々を整える働きである。一人ひとりが、真に主にあって悔い改め、はっきり方向転換をし、ただ主にあって生き、ともに主のみからだの一部として生きるために召されている働きである。

 

(おわりに)みことばによる教会を目指す

 神学校を卒業し、小松での10年目の働きを終えて、この教会に赴任することになった。双子の子どもが6才、小学校、一人は当時の養護学校に入学する年、次女が4歳であった。私たちが赴任することが決まった後、数人の知り合いから連絡があった。共通することがあった。大丈夫か、つぶれるのではないかという声だった。規模が全然違っていたし、また当時この教会にはいくつかの懸案があったことを知っている人たちからだった。その時からこの三月で25年経とうとしている。

 今つくづく思うのは教会のいのちの源は神のことばであるということである。神のことばよりも人の声が大きくなると、教会が暗くなり、福音のいのちを失うということ、又、教師がみことばよりも人を恐れると、教会から希望や喜びがなくなり、全体が混乱するということである。私も人間的な思い煩いや苦しさのあまり、みことばを置き去りにするという失敗をして来た。

 神学校を卒業する私たちに語った一人の先生のことばが今も残っている。「君たちは用いられやすい器を目指しなさい。」という言葉だった。召してくださった主の使命に忠実な者になりなさいと言われたのだった。35年経ち、とても難しいと感じている。しかし、この言葉は真実であった。みことばを中心とすること、これのみがいのちある教会を建て上げると確信している。