むしろ、感謝しなさい

150208 礼拝説教

■聖書:エペソ人への手紙5:37  ■説教者:山口 契 伝道師

■中心聖句:「…むしろ、感謝しなさい」4節後半


 本日の説教題は「むしろ、感謝しなさい」。救われたクリスチャンがどのように生きるのかということが問われている中で、この「感謝する」ということが言われているのです。聖書ではこの「感謝する」ということが様々な箇所で言われていますし、ある箇所では、「すべてのことについて感謝しなさい」とさえ言われているのです。この「感謝」ということについて、私たちはどれくらいそれができているでしょうか。私たちの生活の中では、感謝なんてできるはずがないと叫びたくなるような出来事があります。しかし、「すべてのことについて感謝しなさい」と言われることの意味を教えられて参りましょう。

1.     口から出る悪いもの 

 本日の箇所でははじめに禁止事項が教えられています。あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。さまざまな「良くないこと」が続けざまに登場します。これらは一体どのような意味を持っているのでしょうか。一つのヒントには、これらが「聖徒にふさわしく、口にすることさえするな」と言われていることにあるかと思います。つまり、聖徒にはふさわしくないものが、これらの不品行、汚れ、むさぼり、さらには4節のみだらなこと、愚かな話、下品な冗談であると言える。前回の箇所では「愛されている子どもらしく…」とありました。どうやらこの手紙を書き送るパウロは、この表現が好きなようです。5章の冒頭には、「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。」とある。愛を注がれた子供なのだから、愛のうちに歩むようにと言われていたのです。愛されている子どもらしく歩め、聖徒にふさわしく生きよ、さらに8節では「光の子どもらしく」歩みなさい。と言われている。つまり、パウロはまず律法、ルールありきで「何々しなければならない」、「何々してはならない」というのではなく、存在にふさわしく生きるということをまず第一に教えていると言えるのです。昨年は「ありのままで」ということをよく耳にしました。ありのままで生きる、私らしく生きる。とても優しい言葉であり、今の時代にこれだけ流行るということは、多くの人が求めるところでもあるのでしょう。けれども、私たちが忘れてはならないのは、罪人の私たちがありのままで生きる時、それは罪に罪を重ねていくことに他ならないということであります。まるでブレーキの壊れた車に乗っているようです。どんどん加速していき、どこかにぶつかるまで、誰かを傷つけたり自分を傷つけたりするまでは決して止まらない車です。そして最後に行き着くところは死である。聖書はそのように教えています。ありのままに生きるとは、自分がどのようなものかを分かっていなければ、極めて危険な言葉であるのかもしれません。そんな中から悔い改めて生きるということ。救われた者としてありのままに生きること、これがパウロが教えている「存在にふさわしい生き方」であると言えるでしょう。

 少し回り道をしてしまいましたが、パウロは「聖徒にふさわしく」と言っています。聖徒とはなんでしょうか。パウロはこの手紙の最初に書いていました。「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」聖徒とは、イエスキリストにあるもの、イエス様によって救われ、イエス様と共に生きる私たちであります。この「聖」という字は区別することを表していて、「神のものとされた者」と言い換えることができます。聖書では「取り分けられたもの」とも言われます。かつての、罪を持ちながら自分勝手にありのままに、まるで大きな流れに流されながら生きていたのではなく、救われて、イエス様と一緒に生きる者、神のものとされたものとして、罪から区別されたものなのです。かつての暗い世界から、神様の懐へと招かれ、取り分けられた、罪から区別されたもの。それが聖徒であるクリスチャンなのであります。ですから聖徒にふさわしくとは、神のものとして、もう罪とは区別された者にふさわしく生きるという意味なのです。本日は、そのふさわしい生き方のなかでも、特に口から出る言葉について、聖徒にふさわしく生きるようにと勧められています。

 実はこの口から出る言葉について、聖書はいろいろなところで注意を促しているのです。同じエペソ書の中でも、少し前の429節では「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し、聞く人に恵みを与えなさい。」とありましたし、またヤコブの手紙という書には、「同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です…」(3:510言葉ということについて、それがいかに罪をおかしやすいものであるのか、よくわかるかと思います。先ほどのエペソ書の言葉を考えるならば、「聴く人に恵みを与える、徳を高める」どころか、傷つけ悲しませてしまうことばかりなのです。私たちが読みすすめておりますエペソ人への手紙は、教会に当てて書かれた手紙であることはよくご存知だと思います。そこには様々な人間関係があるのです。もう少し5章を読み進めていくならば、そこには妻たちよ、夫たちよという夫婦への呼びかけがあり。さらに6章に入りましても子供たちよ、奴隷たちよ、主人たちよと、私たちのもつ様々な人間関係について触れているのです。「あなたがたの間では」とありましたが、そのような多種多様な人間関係の中で、本日の「言葉」に関する警告を聴くとき、私たち自身が思い浮かべる、思い出したくない失敗も少なくないのではないでしょうか。自分も不注意な発言をして人を傷つけてしまうことがよくあります。そこで多くの失敗をしたことがありました。

 同時に、本日の箇所で挙げられています「不品行、汚れ、むさぼり」というのは何よりも神様が嫌われるものですから、神様を悲しませる言葉を口にしてはいけないということにもなるでしょう。神と人との中で生かされている私たちは、神と人とに対して言葉に気をつけなければならないのです。少し飛ばして、56あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者-これが偶像礼拝者です、-こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。v6.むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。先ほどは「あなたがたの間では」と書かれていましたが、ここでは明らかに神様との関係の中で先ほど挙げられていた諸々の罪が問われています。6節の神の怒りは不従順の子らに下るという言葉は、すでに何度も開いていますけれども2章、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった、かつての私たちの姿であります。2:13節。

 神を知らないもの、まだ神のものとされていないで闇雲に自分の思うままに生きている者たちの姿がここにはあります。その人々は言葉を持って他者を傷つけ、神を悲しませるのであります。私たちはどうでしょうか?思うに、パウロという人は極めて言葉を大切にしていた人であったのだと思います。「言葉」が簡単に罪に振り回されることを知っている、神を賛美し人々を愛するために与えられたこの口が、人を傷つけ、神を悲しませる口となっている。それゆえにパウロは、何度でも注意を促しているのです。

 

2.     むしろ感謝しなさい 

 その一方で、パウロは積極的に勧めます。そのような罪のままの姿のように悪しき言葉を振りまくのではなく、「むしろ、感謝しなさい」。ここで一つのことに気付かされます。それは、これまで見てきました口から出る「不品行、汚れ、むさぼり。またみだらなことや、愚かな話、下品な冗談」とは、感謝と反対の所に置かれているということ。もう少し言うならば、感謝のないところには、これらがあるということです。ある説教者が、「不品行や汚れ、とりわけむさぼりということは、自分自身が満たされていないと思うから出てくる悪い言葉である」と話していました。言い換えるならば、足りないと思うから、感謝することができず「むさぼり」を始めとする数々の良くない言葉が口から出てくるのだと、教えているのです。人の徳を高め、恵みを与える言葉とは正反対なものが、感謝のないところには満ちているのです。

 先週の祈祷会では、ぶどう園のたとえ話を聞きました。ぶどう園の主人が、ぶどう園で働いてくれる人を探しに街に出て連れてくるという話です。マタイ20章です。主人は9時、12時、3時、5時にそれぞれ働き手を連れてきて働きの場を提供するのでした。朝から来ていた人々は、もらった金額が約束通りの一デナリ、これは当時の1日分の賃金であったと考えられています。そうであったにもかかわらず、不平不満を言います。もっと欲しい、もっともらえて当然だと考えたのです。当然ここには感謝はありません。私たちもそうではないでしょうか。与えられるものにだけ目をとめ、さらに他の人と比べてしまう中で、なんで自分はこれだけなんだ、どうしてあいつの方がたくさん良いものが与えられているんだとこぼします。ましてや、試練の中、理不尽な、自分の力ではどうすることもできないような状況の中に投げ込まれた時、自分の喜びとするところのものが奪われた時、当然感謝することなんてできないでしょう。神様に感謝できないということは、私たちが生かされている場所で互いに感謝し合うことなどできるはずがありません。先ほど見ましたヤコブの手紙にある通り、一つの泉から二つの感謝と呪いが出るはずなのないのだからです。

 

 さて、そうなると冒頭でみました、聖書がいたるところで教える「感謝する」ということ、特にパウロがテサロニケの教会に宛てて書いた手紙で伝えています「すべてのことについて感謝しなさい」という言葉はより一層の重みを増してくるのではないでしょうか。いや、重みというよりはどうしようもなく高い壁という方が正しいかもしれません。では私たちは、聖徒にふさわしく、むしろ感謝しなさいという言葉には従えないのでしょうか。私たちの口から出る言葉はいつまでたっても人を傷つけ悲しませるものでしかないのでしょうか。神様が与えられている交わりの中で、しかし、本当の愛の交わりを持つことはできないのでしょうか。そうではないのです。確かに私たちは私たちに与えられている事柄を感謝することをいつもできるわけではありません。しかし、与えてくださるお方を見るときに、その昨日も今日も永久に変わることのないお方に目を止めるときに、それはできるのです。たとえ周りがどのような状況であったとしても、たとえ私たちの周りの人が自分より恵まれていると感じられてしまう時でも、感謝ができるのではないでしょうか。神様は私たちに語りかけておられます。2コリ12:9「わたしの恵みは、あなたに十分である。」私たちを作り、生かしてくださるお方が、十分であると言われるのです。それ以上を求めること、それ以外を求めることは、むさぼりに他ならないのです。私たちは祈るとき、私たちに与えられている良い事柄ばかりに目をとめて感謝してはいないでしょうか。そのような時に、私たちは一喜一憂してしまうのです。それが減ったり、時に奪われたりと感じる時に、絶えず感謝するということができなくなってしまう。そうではなく、神様を見上げ、神様が十分であると言われている恵みをすでに受けたその事実を、感謝したいものであります。「神に与えられたものを感謝するのではなく、神を感謝するのである」とも言えるでしょう。もちろん与えられたものを一つ一つ数え、それを喜ぶということが悪いわけではありません。その恵みを数え、よくしてくださったことを忘れるなと言われています。しかし、そればかりに目をとめてしまうと、正しいことであっても、少し強い風が吹くと簡単に揺らいでしまうのです。与えられているものが少なくなったり、奪われたりするときに、不平を叫び、むさぼりの罪を犯してしまう。だからこそ私たちは、まず神を喜ぶ、神に感謝するということを忘れてはならないのです。そしてそれこそが礼拝の大切な要素であります。

 

3.     感謝するものの先にある約束 

 すでに十分であるとされている神の恵み、それを本日の箇所の言葉では「キリストと神の御国を相続する」と言い表します。この確たる約束が、感謝することにとって極めて重要なのではないか。すなわちこれは相続として与えられているのである。子でなく、それどころか神の怒りを受ける不従順の子であったと言われている私たち。自分勝手に生きていた罪過と罪の中に死んでいた私たちです。しかしそんな私たちを神様は子と呼び、愛する子として受け止めてくださったのです。そしてやがての日の約束を確かに与えてくださっている。ここに、私たちの喜び、そして「すべてのことについて感謝する」ことの、秘訣・土台があるのです。

 

4.     おわりに 〜光の子へと続くまとめ〜 

 最後に一人の姉妹のお話をさせていただきます。彼女の葬儀の時のことですが、姉妹のご遺族の方とお話をさせていただく機会が与えられました。まだ神様のことを知らない方でしたが、その方のお話によると、姉妹は洗礼を受け、「ありがとう」という言葉が増えたというのです。教会の姿しか知らない私は、姉妹が物腰柔らかで、いつも笑顔の方でしたので、そのような変化があったことは意外な感じがしました。しかし、やはり神様に救われるということは、このように大きな変化をもたらすということなんだと思わされたのです。しかも、感謝しよう感謝しなきゃといって努力して得られたものではなく、例えば日常の生活の中で自然と湧き出てくる感謝の言葉だったのではないでしょうか。直接神様のことを伝えることはなくても、それは自然と滲み出てきて、家族や知人、私たちの人間関係の中で何よりの証となる、そのように思うのです。次回の話を先取ってするならば、光の子らしく歩見なさいと言われる時、光は私たち自身ではなく、私たちのうちに住んでくださるイエスキリストであります。その光が私たちから溢れ出ていく。滲み出てくる。イエス様は、「あなたがたは、世界の光です」と私たちに語りかけておられます。そして「山の上にある町は隠れることができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の目で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようにしなさい。」と言われました。自分で頑張って、多くの人の目に止まり、多くの人を温めるような光を作り出せとは言われていないのです。光を隠すなと言われるのです。すでに私たちには光が与えられている。だからそれを輝かせろと言われているのです。私たちを照らし、私たちを温めてくださったその光を、今度は私たちを通して、私たちのとなりびと、そして世界を輝かせよというのであります。その一つが感謝であると言えるでしょう。私たちに十分な恵みを注いで下さっている神様に感謝し、その喜びを止めることなく溢れ出す、そのような歩みを、この新しい週もさせていただきたいと願います。