すべての慰めの神

■聖書:コリント人への手紙第二 1:3,4   ■説教者:山口契伝道師

■中心聖句:神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。

 

1. はじめに 

 本日は、共に「私たちに与えられている慰め」ということについて教えられたいと願っています。二週前でしょうか、ペンテコステの日、私たち教会は一つ御霊によってたて上げられた、ということをお話ししました。そして、その御霊とは、イエス様によって約束されていた「助け主、慰め主」と呼ばれる存在だった。キリスト教会では、この「慰め」という言葉を多く用いています。しかし、当たり前のように使っているこの「慰め」という言葉の本当の意味、「慰め」ということの力強さを見失ってしまうことが多くあるのではないかと思うのです。日本語の辞書でこの「慰め」という言葉の意味を調べてみますと、「何かをして、一時の悲しみや苦しみをまぎらせる、心を楽しませること」と出て来ました。私もそのようにこの慰めを捉えていました。言うなれば、マイナスの状況をゼロに回復させるもの、それが慰めであると考えていたのです。    

2.聖書の教える慰めについて① 

 しかし、聖書の教える「慰め」、神様が与えてくださる「慰め」とはそうではないようです。マイナスをゼロにする、もとの状態に戻すだけの慰めであるならば、マイナスにならないにこしたことは無い。苦しみや悲しみ、困難なんて無いほうが良いと考えるのです。しかし、イエス様の山上の説教でのことばは、慰めとはそのようなものではないことを教えています。マタイ5:4悲しむ者は幸いです。その人は、慰められるから。これは未来形で書かれていますから、やがて受ける慰めであり、その慰めが約束されているから幸いだと言うのです。苦しみや悲しみにあわないことが幸いなのではなく、苦しみや悲しみの中で慰めを与えられることが幸いである。そのように言い換えられるのです。

 慰めには二種類あり、「すでに受けている慰め」とは「一時の悲しみや苦しみをまぎらせる、心を楽しませること」であります。であるのに対し、「やがて受ける慰め」、幸いであると言われるこの慰めとは、神様の与えてくださるものである。この「やがて受ける慰め」について、ヨハネの黙示録21:34節では次のように言い表されています。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 悲しむもの、苦しむ者はやがて慰められる。だから悲しむ者は幸いであると言われていることばを見て来ました。その慰めとは、一時の気を紛らせるもの、言うなればその場しのぎの「慰め」などではないのです。もはや死も無く、悲しみ、叫び、苦しみも無い。目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる、そんな慰めが用意されているのです。だからこそ、幸いであると言われる。

 

3.聖書の教える慰めについて② 

 私たちの考える慰めと聖書の教える慰めには違いがあるということを見て来ました。ギリシャ語の辞書で、「慰め」という言葉を見てみると、「傍らに呼ぶこと」とありました。そばにいること、それが慰めであると教えるのです。この神と共に生きることの力強さは聖書の至る所で歌われている通りです(詩篇23篇など)。主と共に生きる者がどれほどの安心で満たされているかを歌っている詩です。死の陰の谷を歩くことがあっても、すなわち、いのちを脅かせるような恐怖、私たちの喜びをすべて奪い去ってしまうような、一筋の光も見られない絶望の暗やみの谷底にあっても、私はわざわいを恐れないと言うことができる。それは、「あなたが私とともにおられますから」。私たちのいのちをつくられたゆえに、私たちのすべてをご存じであり、私たちといつも共におられるお方が、どんなときにも共にいてくださる。確かに、私たちがこの地上で生きている限り、苦しみや悲しみはなくならないでしょう。けれども、やがての日、悲しみや苦しみはもはや完全にないと約束されるお方、私たちの一番近いところで涙を拭き取ってくださるお方が、しかし今すでに、私たちと共にいてくださるのです。やがての日、完全に悲しみがなくなることを私たちは確信をもって待ち望みつつ、今の困難の中を、しかし孤独ではなく神様とともに歩むことができる。これが、私たちに与えられている慰めであるのです。

 最初に触れました「悲しむ者は幸いである」という教えですけれども、ここには「罪を悲しむ」という意味があります。罪とは的外れであると言われます。神様という本来向かうべき的から外れている状態です。ある聖書の箇所では、神様との関係が断絶してしまっていると言われる状態。つまり、神様とともにいない状態です。そのような神様から離れている孤独の状態を悲しむこと、悔い改めることで、私たちは神様とともに生きることができるのです。いや、神様がそうするようにと手を差し伸べ、待っていてくださる。クリスチャンになったからといって困難がなくなるわけではありません。時に涙を流し、疲れ切って、倒れてしまうこともある。でも、そこでは終らないのです。やがての日に、私の目の涙をすっかりぬぐい取ってくださり、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもないと約束されるお方が共にいてくださるから、何度でも立ちあがることができますし、どんな暗やみの中にあっても絶望をすることが無いのです。

 

4.まとめ 

 最後に本日の聖書をお読みします。どのような苦しみのときにも、とあります。今、苦しみの中に置かれている方もいらっしゃるでしょう。まさに戦っておられる方がいます。神様はその苦しみを知らない方ではありません。そのお方が、私たちとともにあり、寄り添い抱きしめてくださり、本当の慰めを与えてくださる。いやそれは、こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。慰めを注がれた者として、この慰めを今度は私たちの隣にいるあの苦しんでいる友人へ、家族へ、愛する人へと伝えることができる。人のことばだけの慰め、一時だけの気を紛らわすものではなく、神様の愛に満ちた温かく力強い慰めを届けることができる。それは、慰めを経験した者でなくてはできないことであり、私たちの受ける苦しみや経験する悲しみは、神様の慰めを知るため、もっと言えば、その慰めを多くの人に届けるためであるとも言えるでしょう。これこそが、慰められる者、イエス様の言われる幸いな歩みに他ならないのです。