一つの御霊を注がれて

■聖書:使徒の働き2:113、エペソ4:46    ■説教者:山口契 伝道師

■中心聖句:からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。(エペソ4:4

 

1.     はじめに 

 教会に来ると、本当に様々な人がいるということを思わされます。年齢はバラバラですし、職業や育ってきた環境も違う。時には私たちの気持ちを伝えるコミュニケーションの道具である言葉が違う方々もいます。その一人一人が、それぞれの道を通して、今日のこの時この場にいる。何と不思議なことでしょう。いや、ただ同じところに存在しているだけでなく、同じ神様を見上げて賛美をささげ、祈りをなし、御言葉に耳を傾ける。礼拝をささげているのです。本日はペンテコステ、聖霊降臨日と呼ばれる大切な日であります。私たちを一つに結びつける御霊について、御言葉に聞いてまいりましょう。

2. ペンテコステの出来事【使徒2:113 

 ペンテコステとはユダヤ教の祭りの一つであり、旧約聖書でイスラエルの民が守るように言われていた大切な日でありました。エジプトでの奴隷としての生活から逃れ、七週間の後、つまり出エジプトから50日目に十戒を初めとする律法が与えられた日であります。イスラエルの民はこれを覚え、記念するよう言われていましたから、一年の中でも大切なときとしてこの時を過ごしていました。

 使徒の働きにはダイナミックな宣教の様子が記されています。その初め、イエス様の福音が世界中に流れ出す、例えるならば大きな川の最初の一滴が、本日のペンテコステの場面にあるのでした。聖霊がくだり、その聖霊によって福音は世界中に届けられていく。その大川はせき止められることなく今日の私たちまで流れて来ました。それが本日のペンテコステの出来事なのです。

 弟子たちはただ漠然とこの日を過ごしていたわけではなく、イエス様が天にのぼられる前に言われた約束を守っていたのです。直前でイエス様は、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」と言われていますから、彼らはその言葉に従い、父の約束が果たされることを待っていたのです。その約束こそ、本日交読文で共にお読みしましたヨハネの福音書14:16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、共におられるためにです。その方は、真理の御霊です。」イエス様の約束とは、もうひとりの助け主、いつまでも共にいてくださる真理の御霊を与えようと言う約束だった。ただ待つということは不安であります。時に揺らぎ、期待することができなくなるかもしれない。だからこそ彼らは、一つ所に集まっていた。励まし合うために、ひとりでは孤独の中で待つことに耐えられなくなってしまうから、切なる必要に駆られて集まっていたのでした。

 

 そしてイエス様の約束は果たされるのでした。2:24突然、といわれていますから、前触れのようなものはなかったでしょう。しかし突然、沈黙を打ち破って響きが起こり、目に見える形で不思議がなされた。聖霊がくだったのです。その結果、彼らだけでなく、彼らの周りの人々をも驚かせることになっていきます。2:513 祭りのため、エルサレムの神殿に来ていた多くの他国で暮らすイスラエル人がいました。イスラエル人ではありますけれども、他国で生まれ育った人々です。その彼らが、それぞれの国言葉、いわば耳慣れた母国語で話されるのを聞いたのであります。人々の反応は「驚きあきれ」、「驚き怪しみ」、「驚き惑う」など、いろいろ書かれています。確かに、急にこのような不思議が起こればそのような反応は当然でありましょう。そして私たちはついついそのような不思議にばかり目を奪われがちであります。

 しかし、私たちは今朝、このペンテコステの出来事が、「いろいろな国ことばで話された」ことで終わらずに、いろいろな国ことばで「神の大きなみわざ」が語られたことに注目したいのです。すなわち、聖霊がくだり、いろいろな国ことばで語られ、そして福音は世界に広がっていく。聖霊は広がりを生み出すものでありました。しかしそれは、神の大きなみわざという点で一致しているのです。では、聖霊に満たされた彼らが声を大にして叫んだ神の大きなみわざとは何か。それは考えるとき、罪と罪過の中に死んでいた私たちにいのちを与えてくださったこと、神は実にそのひとりごをお与えになったほどに世を愛されたといわれるほどの神の愛にほかなりません。すなわち、イエス様の「十字架による救い」が私たちの中心にはあることを、聖霊は私たちに教えてくださったのです。聖霊は一致を生み、聖霊によって神の大きなみわざが様々な人によって告白されていく所に、教会はたて上げられていくのです。

 

 本日のもう一つの箇所、エペソの4:4をもう一度お読みします。エペソ書4:4からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じですキリストのからだである教会は一つ、そして御霊は一つといわれています。からだが一つであることと御霊が一つであることは切り離せないということが分かります。御霊が一つであるゆえに、からだは一つである。一つの御霊が注がれて、私たちの教会は一つであるといわれているのです。御霊によって教会は生みおとされました。それは時代を超え地域を越えた一つのからだです。まるでペンテコステの日、様々な国ことばでしかし一つの神の大きなみわざが語られたように、私たちを一つにするのであります。

 

3. 注がれた一つの御霊 【ヨハネ14:15  

 そのように、一つの御霊によって生み出された一つの教会です。もう一度イエス様の約束を思い起こしましょう。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、共におられるためにです。その方は、真理の御霊です。」聖霊の働きは確かに様々であります。ダイナミックに世界中に福音を宣べ伝える力としての聖霊の姿があります。その一方で、私は、このイエス様が約束された聖霊の姿を今朝、皆様とともに覚えたいと思ったのであります。「助け主」として約束された聖霊です。この助け主は「慰め主」とも訳されるお方であります。いつまでもあなたがたと共におられる、慰め主なる聖霊。直訳すると「呼ばれて傍らに来てくれている者」という意味であるようです。「慰め主」が私たちには注がれているのです。ある人は、教会を「慰めの共同体」であるといいます。慰め主が注がれ、その御方によって生み出された教会であるゆえに、そう呼ばれるのでしょう。そのような教会でありつづけたいと願います。