『ただ一つの願い』

■聖書:詩篇27:114   ■説教者:山口契 伝道師

 

■中心聖句:私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。 

 

1.はじめに

 本日の説教題を「ただ一つの願い」とさせていただきました。あなたの願い事は何ですか?と聞かれて、まず何を思い浮かべるでしょうか。それは見方を変えるならば、何を願って生きていくか、何を求めて生きていくかの人生観、生き方に関わる問いであるということができるかと思います。後でも詳しく触れますが、中心聖句、私は一つの事を主に願った。この一つの事とは、「唯一の」という意味と同時に、「第一の」という意味も持っています。たくさんの願いがあります。しかしその中で、何を第一に願うか。それによって、私たちの生き方は明らかに変わっていくのです。本日は先ほど司会者の方にお読みいただいた詩から、ある人物の願いについて見ていきます。それはこの詩篇の冒頭に書かれているダビデという人物の歌であります。イスラエルの王さま、大きな力をもち、素晴らしい信仰を持っていた偉大な王の願いは何だったのか。共に見てまいりましょう。

2.ダビデの確信

 前半部分から見ていきましょう。1-3節。これがいつの時代につくられたものかは分かりませんが、このダビデという人物はいつも戦闘の中に置かれていた人物でありました。一国の王として他国との戦いが多くあったことは分かりますが、それだけではありません。王になる以前には先代の王にいのちをねらわれ、王になった後にはダビデ自身の息子に命をねらわれたのであります。それは現実の目に見える形で向かってくる敵だけではありません。多くの彼を取り巻く環境・状況が、彼の肉を食らおうと迫ってきます。目に見える敵だけでなく目に見えない敵さえもが、ダビデの肉体ばかりでなく心までも苦しめ、傷つけ、滅ぼそうと四方八方から押し寄せてきていたのです。

 しかしダビデはそのような中にあって、目に見える敵、目に見えない敵に囲まれる中でも、歌うのです。主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。彼の目は主に向けられていたのです。先の見えない真っ暗な中であっても、主は私の光として輝き、進む道を照らし出してくださる。助けがないように思えるような絶体絶命の中にあっても、主は私の救いとして助けの手を伸ばし解決を与えてくださる。私を傷つけ、倒れさせよう滅ぼそうとする猛獣のような敵に取り囲まれても、主は「私のいのちのとりで」、私を堅く守って下さる、それゆえに安心を与えてくださるというのです。この主と呼ばれるお方を見つめているからこそ、様々な問題、敵を前にしても私の心は恐れない、私は動じないと言えるのです。強がりではなく、心からそのように言える。なんと素晴らしい生き方でしょうか。困難な中にあってもだれを私は恐れよう、苦しみ悲しみの中にあっても、だれを私は怖がろうと、心から言えるならば、どんなに力強いことでしょう。そのようなダビデの生き方、揺るがされることなく立ち続けることができた理由、秘訣とも言えるでしょうか、それが、続く46節で歌われているのです。

 冒頭で、何を願うか、何を求めるかは、私たちの生き方に関わるものであるとお話ししました。どこを見ていくかによって、私たちの歩みは大きく変わっていくからです。お金や名誉、地位といったものを第一に願い求めている人の生き方と、このダビデの願い、そして生き方は大きく違います。私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。かつて願ったそのことを、今でも求めている、とダビデは言います。どのような状況にあっても、変わらずに願い求めつづけていることが彼の「ただ一つの願い」なのです。先ほども申し上げましたように、これは第一の、とも読み取れる言葉です。確かに日ごとの必要はたくさんあります。それらをすべて求めてはいけないというわけではなく、たくさんの必要があるけれども、しかし、第一に求めるべきものが何であるかをしっかりと知っておく必要があると、言っているのでしょう。その第一に願い求めることは「私のいのちの日の限り、主の家に住むこと」なのでした。言い換えるならば、いつまでも神様といっしょにいること、それが、それだけが、私の願いだというのです。困難な中、先代に追われ実の息子にいのちを狙われる中にあったとしても、彼が願い求める第一のことは、この神様との親しい交わりをもつことなのでした。いやそれが、現実逃避ではなく、その直面している苦しい現実の一番の解決になることをダビデは知っていたのです。v5それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかな所に私をかくまい、岩の上に私を上げてくださるからだ。確かに詩篇の中には直面している事柄の解決を願う祈りも多くあります。その助けがすみやかに来るようにと祈る詩篇もあります。けれども、それら問題の一つ一つの解決よりも、根本的な解決こそが必要なことをダビデは感じていたのです。問題が解決したとしても、目の前の必要が一つ解消したとしても、それらはまた別の形で表れてきます。それは私たちも経験があることではないでしょうか。そうではなく、根本的な解決を願ってダビデは歌うのでした。

 

3.ダビデの苦しみ、その中でも待ち望むということ 

 私たちは、その本当の願いを願うことができなくなることがあります。目の前の問題に心奪われ、心ゆさぶられ、期待できずに、苦しみの日々を過ごすことがある。この詩篇は力強い確信に満ちた前半部分と、言うなれば弱々しい嘆きに満ちた後半部分に分かれ、いずれも真実のダビデの姿であり、そして私たちの姿でもあるのです。一節一節を詳しく見ることはしませんが、9節には、ダビデが神様を近くに感じられない状況があることが、悲痛な叫びをもって書かれています。見放さないでください。見捨てないでください。すがる思いで求めています。このような姿を見るとき、あのダビデでさえも悲しみや苦しみが全くないわけではないのだと気づかされるのです。私たちはどこまでも不完全な者で、完成への途上にある者です。ただ一つの願いを求めながらもたくさんの失敗をし、時につまずき、時に倒れることもあるでしょう。けれども、それでいいのです。嘆きをぶつける後半部分の中でも、それでも10節には私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。主だけは決して見捨てないのだということが、私たちが苦しみの中にあるときにこそ分かるのであります。私たちは弱い者で、すぐに神様を遠くに感じ、問題の中で孤独を感じることがある。けれども、主は私たちを見捨てないのです。だからこそ、この詩篇は待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を。という言葉をもって結ばれているのです。待ち望んだ先にあるのは、いのちの日の限り主の家に住むことを、神様との親しい交わりをただ一つの願いとする姿であり、そしてその願いにもとづく、何物にも揺るがされることのない喜びに満ちた歩みであります。理想は理想で終わることなく、待ち望むときに必ず与えられる、約束なのです。