喜びと感謝を持って

説教 川口昌英 牧師 

聖書個所 ローマ人への手紙1617~27

中心聖句 兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。

                        ローマ人への手紙 1617

説教の構成

◆()この個所について

 全体の終わりですが、意外なことが言われています。終わる直前であるのに、「あなたがたの学んだ教えにそむく人たちを警戒しなさい」(17) と言われているのです。

 ここで言う「あなたがたが学んだ教え」とは、パウロがこの書簡の始めから述べて来た事柄です。[選民イスラエルだけでなく、御子の罪の贖いによって異邦人も信仰による義が実現していること][しかし、完全にきよめられたのではなく、神に迎えられ、中心そのものは変えられているが、まだ罪の性質が残っている聖化の状態にあること][救われた者のために聖霊が与えられ、神の子、相続人となる約束を実現してくださること][神は最後の計画を実現し、世界を完成してくださること][恵みを受けた者として、実際生活において、神の民として生きること]などです。それらに反対し、「教えにそむいて分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。」と現実的な注意がなされているのです。

 手紙を終える最後に、正面きっての反対者ではなく、一見、キリストにある者のように見え、又振る舞っているけれども大事な点において、主の御旨に背いている者たちを警戒しなさいと言うのです。18節でその理由が説明されています。(朗読) 結局、主よりも自分の栄誉、評判を大事にする人々であり、神の国にとって警戒すべき人々であると言うのです。

 そんな生き方をしている人々に対し、あなたがたは今持っている従順を保ち、キリスト者として善、神に喜ばれることにさとく、悪、神に背くことには関わりを持たないようにしなさい、神はそういう従順な生き方をする者を顧み、そのような人を攻撃するサタン、敵対し、執拗に人を誘惑する者を踏みつぶす、完全に勝利してくださると励ましています。

 最後に、今自分と共にいる者たちからの挨拶を伝え、そして創造者であり、救いの御技を完成され、新しい生き方を与えられた天の神に栄光を帰し、讃美しながら筆を終えています。

◆(本論)パウロが最後に知ってほしいと願っていること

最後の部分からいつまでも覚えていて欲しいと願っていることが分かります。第一に、真正面から攻撃するこの世の迫害者だけでなく、福音をスポイルする、大切な中身を取り替えてしまう教えについて警戒すべきということです。このようなことを言う必要があったのは、信者や教会の実態を見ていたからです。最初は純粋に福音を信じ、主に従っている信者、教会も、似ているようだけどもその一番大事な点がずれている教えにさらされ続けると、やがて喜びも平安も希望もない信者、教会になっている姿を幾例も見て来たからです。

 例えば、ガラテヤの教会がそうでした。せっかく福音のすばらしさを知り、めぐみによって生きるようになっていた異邦人教会でしたが、信じた後も律法を遵守しなければならないというユダヤ人クリスチャンたちの教えによって信仰の恵みを見失ってしまったのです。それに対して、パウロは非常に強いことばをもって彼らを叱責しています。(ガラテヤ人への手紙16~9節、31~5) 似て非なる教えがどれほど、信者や教会を蝕むのか、駄目にするかを実際に経験していたのです。それゆえ、終わりにあたって17~20節において、そういう偽りの教えの人々を警戒せよ、彼らから遠ざかりなさい、あなたがたはそんな者たちに惑わされないで、人々に知られている従順な姿勢を持ち続けてください、そうするなら、地上に真の平和を与えられる神は、あなた方自身によって、執拗に又巧みに襲いかかるサタンに対して時を置かず、勝利されると言います。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現してくださるのです。(第二歴代誌169)と言われている通りです。主は信仰者がどのような状況に追い込まれても沈黙しておられると言われることがありますが、ご自身に対して従順な者に勝利を与えられる方です。

 そんな例として、内村鑑三の例をあげることができると思います。1891年、一高の講師をしていました内村鑑三は、皇室を中心とする国づくりを目指して児童、生徒を教育するためにその前年に出された天皇署名の教育勅語に対して、教師や生徒が一人ひとり壇上に上り、本来は深々と拝礼する姿勢が求められたのですが、キリスト者としてためらい、会釈程度の姿勢をとったことから不敬だとして、今日的な言い方をするなら、一部の教会側からも含めて、国中からバッシングを受け、どこにも身の置き所がないほどに追い込まれ、夫人の死、自身の退職など筆舌に尽くせないほどの苦難を味わったのです。そんな内村に対して、日本古来の歴史と伝統を重んずべきと考えていた人々、特に教育勅語作成に深く関わった東京帝大教授井上哲次郎は、これをきっかけとして「教育と宗教の衝突」論争を起こし、キリスト教は皇室を中心とする歴史の日本に合わないと攻撃したのです。こうした論争によってキリスト教に対して警戒心が顕在化し、異質なものとして見られる傾向が非常に強くなり、近代の宣教開始以来の力が失われています。そして、そういう風潮が1945年の敗戦まで続いたのです。しかし、そんな逆風が荒れ狂う中でも、主は沈黙されていなかったと考えます。強く否定された内村鑑三からは南原繁や矢内原忠雄など戦後の日本社会形成に大きな役割を果たした者たちが出ましたが、一方、攻撃した側は、その歴史観や国家観の恣意性、浅薄性が露呈し、一挙に信頼を失ったのです。人の目には見えなかったかも知れませんが、主は沈黙されていなかったのです。真に主に従う者たちに、力を与え、支え、必要な時に立つ勇気を与えたのです。

 

こうしてあなたがたは惑わされないで主を信頼し、どんな時にも従順であるようにと勧め、そしてともにいた者たちからの挨拶を送り、最後に主をほめたたえて書簡を終えています。25(26)~27節。難解な文章ですが、要約すると第一に、世々にわたって長い間隠されていたが、永遠に存在される神の命令に従った者たちによって旧約の中で明らかにされていた通りに、 福音が今現されていることに対する讃美です。そして第二に、信仰によって生きるあらゆる国の人々に知らされた奥義によって、あなたがたをゆるぎなく立たせることが出来る方、測り知れない深い知恵に満ちた唯一の神に、その一人子であり、御心を実行されたイエス・キリストによって御栄えがとこしえまであるようにという讃美です。文章は難解ですが、意味そのものは難しくはありません。本当に約束を実現してくださった神の真実に対する讃美であり、そのなしてくださった御技、すばらしい力と知恵に対する讃美です。中でも、わざわざイエス・キリストによって御栄えがとこしえまでもあるようにと言われているのは、ひとり子さえも惜しまない至上の愛を与えてくださったことをほめたたえているのです。

 

◆(終わりに)連続説教を終えるに際して

 手紙を終えるにあたってのパウロの思いはどんなものであったでしょう。私が思ったのは喜びと深い感謝で心がいっぱいになっていたのではないかということです。あらためて主の真実とめぐみを深く感じることができたからです。神がなしてくださった御わざを丁寧に見ることは慰めと励ましをもたらします。生きる基準、生きる方向をはっきりさせるからです。

 聖書のエッセンスであるこの書は、宗教改革以来、一人ひとりの信仰を整え、教会を刷新する役割を果たして来ました。そんな書が与えられているすばらしさを思いながら、これからもこの書に親しみ、主の民として生活しましょう。信仰者の力はみことばに深く親しむことにあります。