思いが溢れた挨拶

説教 川口昌英牧師

聖書個所 ローマ人への手紙161~16

中心聖句 この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。

                          ローマ人への手紙164

説教の構成

◆()この個所について

 長い間、共に見て来ましたローマ書もいよいよ最後の章になりました。今日と後もう一回で終える予定です。連続講解説教ということで、理解が容易でない個所では、どうしても説明的になりがちな面がありましたが、旧約を踏まえて、新約、新しく実現した神の義について体系的に、又その中心を明確に伝え、キリスト者としての生き方を具体的に明らかにしている、聖書全体の要約であるローマ書を終わりまで詳しく見ることが出来ましたのは本当に幸いだったと思っています。

 最初に、連続講解説教を始めるときに、この書を読むことは、全体が見渡せる眺望の良い高い山に登るようなものだと言いましたが、どうだったでしょうか。聖書全体を凝縮しているような書ですから、一回聞いただけでは分かりにくいところもあったと思いますが、そういうところは配布したペーパーをもう一度取り出してじっくりとこの書簡のすばらしさを味わっていただきたいと思います。

 さて、いよいよ最後の章です。前章までにおいて、伝えたいと願ったことは全て明らかにしていますので、そういう意味では本来の目的は終えているのですが、実はこの最後の挨拶の部分は、送り主であるパウロの人生がはっきり出ているとても興味深い個所なのです。では、中身を見て行きます。

◆(本論)使徒パウロの挨拶の特徴

まず気づくのは、この部分は単なる人間的な、以前からの知り合いの人々への親しみを込めた挨拶ではないということです。挨拶以上の意味が込められています。一人ひとりについて言われている表現を見ると分かります。

 まず1~2節、フィベについて「聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてください。この人は、多くの人を助け、また私自身をも助けてくれた人です。」と言います。主に忠実に従い、主のために懸命に生きている人がそちらに行きますから、彼女が必要としていることをして助けて欲しいというのです。

 そこにあるのは、ともに主に仕えている同労者への心配りととその人を受け入れるローマの信者に対する深い信頼です。社会的にキリスト教がまだ不安視され、認められていない中で、共に主を信じ、従っている者たちへの深い一体性、神の家族としての思いに満ちています。

 以下の挨拶もすべてそうです。ほとんど「キリスト・イエスにあってしているだれそれ」と言っています。その表現から伝わって来るのは、先に述べたように個人的な挨拶ではなく、主にあって共に奮闘している、主の証人としての歩みをしている者たちに対して、これからもそう歩んで欲しいという深い願いが込められていることです。

 

そのほかの人々への挨拶も見て行きます。まず「プリスカとアクラ」についてですが、他の個所ではプリスキラとも言われています。使徒の働き181~3節、18節、26(朗読) 一時パウロたちと行動を共にし、今は元のローマに戻って家の教会を主宰している夫妻です。この人々について、「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラ」と言います。主にあって、私と志と思いが同じ人々であると言うのです。又「この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。」(4) と彼らは生涯をささげて福音のために、又信者のために懸命に生きている人々だと言うのです。尚、この夫妻について付け加えますと、最初はアクラとプリスキラという順序ですが、後の方ではプリスカとアクラという書き方に変わっています。勿論、意味があるのです。伝えたい方からが先に言われるわけですから、プリスカの働きのほうが良く目立つようになったということです。ともかくも主の働き人として多くの人々から信頼されていた夫妻だったのです。

 

その他の人についても、その人の主にある様子について述べています。「エパネト、アジアでキリストを信じた最初の人」(5b)「あなたがたのために非常に労苦したマリヤ」(6) 「私と同国人で私といっしょに投獄されたことのある、アンドロニコとユニアスこの人々は使徒たちの間によく知られている人々で、また私よりも先にキリストにある者となった者」(7) 「主にあって私の愛するアムブリアト」(8) 「キリストにあって私たちの同労者であるウルバノと(主にあって生きている) 私の愛するスタキス」(9) 「キリストにあって練達したアベレ、(主にある)アリストプロの家の人たち」(10) このぐらいにしますが、続くところも同じです。「主にあるだれそれ」あるいは「主にあって……しているだれそれ」です。すべて当時のローマ社会の中で厳しい目を向けられることも恐れず、真理である福音を信じて生きている、心から信頼し、神の家族である人々に心を向けているのです。

 

こうして見ると、パウロの人との繋がりの特徴が明らかです。自分にとって有利になる者へのよろしくと言っているのではないのです。神の国の民たちとのつながりです。何故なのか、バウロの生涯の目標と深い関係があったのです。

   この講壇から再三語っていますからあらためて言う必要がないかも知れませんが、福音を知り、主に召された後のパウロの生き方は、直前の14章でも言っていますように「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら主のために死ぬのです。生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」(147~8)という意識で一貫しています。主を知らしめるという一事に励み、そして約束されている「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走ってい」たのです。(ピリピ313~14)

 以前にある牧師が、日本の教会の牧師は、同業者意識はあるかも知れないが、同労者意識がないと指摘されたことがありました。分かりにくい言い方ですが、それぞれが努力して成果をあげることが必要だという考えが中心を占め、共に主に召され、主のために労しているという一体感がない姿です。現実的に微妙な問題がありますから簡単には言えませんが、この同労者意識が浸透して行きますと、例えば、都会の「大教会」牧師も、地方の「小教会」牧師も、お互いに率直且つ謙遜な交わりを持つことができ、具体的な助け合いが出来、日本の伝道の前進になるはずです。しかし、なかなかそうなっていないのが現状です。パウロは、大神学者であり、大伝道者でしたが、生涯、この同労者意識を強く持っていたのです。

 

◆(終わりに)よろしくに込められた意味

 最後に、よろしくという意味ですが、私のことを覚えていて欲しいという意味ではありません。今、主のために生きている、労している人々に続けてそうして欲しいという意味です。共に

厳しいこの社会の中にあって、福音を知り、福音に生かされている者として、これからもずっと

主のすばらしさを証しをして欲しいという願いです。本当のキリストの弟子として歩んで欲しい、それが召された私たちに主が求められている生き方だと言うのです。信仰の友は支えなのです。私たちも、厳しいこの国の中でそういう交わりを持って日々を送ろうではありませんか。