もう一つの死

❖説教 川口昌英 牧師

聖書個所 テモテ第の手紙46~8節 

説教の構成

◆()日本社会における死

 わが国において死というとき、民俗信仰、仏教的思想、中でも浄土教的考えが目立ちますが、すべて肉体の死を指し示しています。肉体の死が絶対的な意味を持っているのです。生きて来た繋がりを一切断ち切り、又足跡を全て消し去るものとして、肉体の死が人々の前に立ちはだかっているのです。

 そのように思われているのは、理由があります。風土、人生観と深いつながりがあります。人生は、この世での生が全てという現世主義、此岸主義が強くあります。人が生きるうえにおいて何よりも大事なのは、真理や永遠、彼岸での姿ではなく、現世の現実生活であるという考えです。それゆえ、肉体の死を迎えることは、最高の価値が消滅することですから、希望が絶たれる、大きな暗闇の中に入ることなのです。

 更に、生きるうえにおいて、人にとって何よりも大切なのは、過去や将来ではなく、今、現在であるという、現在主義という考えが強くあります。肉体の死は、今の現在のさまざまな大切な関係が全て消滅することですからやはり恐ろしいものなのです。

 このように、日本社会において、死の中心にあるのは肉体の死、現世での存在の終わり、現在の消滅です。それゆえ死は、絶対の力を持ち、人々に暗い思いをもたらしていますが、他方、死後における裁きを重視しませんからどこか安らぎを感じています。又、死を迎える存在であるゆえに、自分の生き方を深く考える、捉え直すということもないのです。

◆(本論)聖書が伝える死

神のことばである聖書は、そのような考えと違っています。聖書における死は、驚くべきことですが、肉体の死を特別に際立たせていません。軽視していませんが、この国の多くの人がすべてと考える肉体の死よりもっと重要、根源的な死があると言うのです。そして、肉体の死が人にもたらしている絶望、恐れは、この根源的な死と深く繋がっていると言うのです。

 それほど重要な意味を持つ根源的な死とは何か、死の中心に霊的な死があるという考えです。人を人たらしめる本質、天地万物を創造され、一人ひとりに命と生きる目的を与え、生かし、深く愛しておられる創造主、父なる神、生ける真の神との関係が断絶している状態です。聖書は、この霊的死、神に背いている状態、罪が死の中心にあると言います。そして、この状態がある限り、肉体は生きていても、実は死んでおり、不安と恐れの中にいるというのです。

 

それについて分かりやすく言っているのが、ルカ1511節以下の放蕩息子の譬えです。この息子は、言うまでもなく肉体的には生きていました。落ちぶれる前も、自分のしたい通り願う通りのことをしていましたから、むしろいきいきとした人生を送っているように見えたのです。しかし、父親は、彼が出て行き、我に返るまで「この息子は死んでいた」と言います。そして反対に落ちぶれた後、決意して父のもとに帰ろうとした時から「生き返った」(1524) と言うのです。普通の考えとは違うのです。

 普通は、肉体が生きているならば、まして自分の願うように生きているなら喜びを持って生きていると言うのです。しかし、主は、この譬えを通して、実は反対であると言うのです。

 

みことばは、生き生きしているように見えても、本来の状態、最も大切な状態からはずれているなら、その人は死んでいるというのです。

 何故そうなのか。人は、元々、独立して生きる存在ではないからです。主体性を持っていますが、造られ、生かされ、愛されている方との親しい交わりのうちに生きる存在という意味です。人は、神のみもとにおいて、本来の姿を持ち、生きる喜びと力が与えられ、又、他の人と真の意味で関わることができるのです。創世記126節で「われわれのかたちに人を造ろう」と言われているのはそういう意味です。けれども3章において記されているように、サタンの誘惑により、自分が神のようになりたい、自分が中心という道を選んだ結果、神と断絶状態になり、命が与えられ、生かされ、愛されているものとしての本来の生きる意味も喜びも力も愛も失ったのです。ですから、いくら肉体的に生きていても死んでいる状態と言うのです。(エペソ21)、そして存在の中心を失ったことにより、命を産むこと、働くことなど生きることが苦しくなり、又裁きとして死ぬべき存在となったのです。(創世記316~19)

 神を認めない人は、これらの姿を自然、元々のものと受けとめ、そして仕事、学び、家庭、友人などで人生の意義を見いだそうとするのですが、これは繰り返しますように本来の姿を失った罪の状態であり、真の喜び、平安を見いだすことができないのです。聖書はこうして肉体の死よりもその中心に霊的な死があるというのです。

 皆さん、よくご承知の星野富弘さん、体操教師なりたての22才の時に、器械体操の実演により、首の骨を折リ、首から下が完全に麻痺し、手も足も全く動かなくなりましたが、その療養中に友人の導きにより、ひとり子をお与えになったほど人を愛された神の愛を知り、それから口で筆をくわえ、文章や絵を描くようになり、今では日本国内だけでなく、国外においても多くの人々に感動、勇気と力を与えている方ですが、こういう作品があります。命が最も大切と思っていた時には生きることがつらかった、しかし、命よりも大切なものが分かった時に、生きることが楽になった。私は、このことばは、クリスチャンの人生観をよく示していると思います。

 

◆(おわりに)死は新たな始まり

   聖書の個所を見て来ませんでしたが、パウロは、ここにおいて、死(処刑)が目前という状況の中、真正面から死と向き合っていますが、豊かな平安を与えられています。与えられた走るべき道を走り終え、信仰を守り通した、肉体は死んでも神のもとに迎えられ、義の冠が授けられる約束を知っているゆえに深い平安に満たされているのです。別の個所においては「私にとって生きることはキリスト、死も又益です。」(ピリピ121) と、主とともに生きる者にとって、死は良いこと、益であるとさえ言っています。

 立ち会うことが出来た方々の死から、人の死の中心にあるのは、この国の人々が感じていることと違う、赦しであり、神の平安であると心から思います。肉体的にはつらい中にあっても、主による救いを信じている人は確かな平安に包まれています。共におられる御霊の慰め、支えだと思います。死は、誰にとっても経験したことがない、本来ならば恐怖を感ずる時ですが、最後の時に御国の約束のみことばが既に実現しているように感じます。

 繰り返すように、この国においては、死は絶望と思われています。しかし、死の中心は罪であり、そして罪の赦しがあるところには消えることがない希望があるのです。罪を赦し、神の義を確かにした十字架による福音は最後の敵と言われている死に対しても勝利を与えるのです。

 クリスチャンにとって、死は忌むべきもの、穢れでもありませんし、絶望でもありません。与えられた地上の生涯のゴールであり、約束された天の御国への旅立ちです。確かに残される者たちにとって言いようもない寂しさがありますが、それに対しても再会の希望があるのです。与えられた道を歩み、義の冠を目指して歩みましょう。そして廻りの人に死に対しても神の平安が与えられていることを伝えようでありませんか。「人間には一度死ぬことと裁きを受けることが定まっている」(ヘブル927)、 誰もが死を迎えます。全てを主に委ねて日々を送ろうではありませんか。