ビジョンに立つ

説教 川口昌英

聖書個所  ローマ人への手紙1514~33

中心聖句  兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。

                             ローマ人への手紙1530

説教の構成

◆()この個所について

 キリスト者の交わりについて長々と書いて来た真の理由を述べます。キリスト者としての本来の使命を共に思い起こすためであったと言い、(14~15) そして、その異邦人宣教を行って来た自分の証しをしています。(16~21) 続けて、今はその働きを中断してエルサレム教会の信者のための救援活動をしているが、それが終わったならばローマを訪れた後、イスパニヤ(スペイン)まで宣教する計画であるから、そのようなビジョンを持っている自分のために祈って欲しいと切に願っています。(22~33)

◆(本論)本来の使命

始めに14章以来、教会の交わりについて長々とりあげて来た理由を明らかにします。14節、そのように書いて来たのは、あなたがたが福音にふさわしく成長し、世にあって良い証しをするようになることを硬く信じているからだと言うのです。そして15節、あなたがたにもう一度、キリスト者に託されている本来の使命を思い起こしてもらうためであったと言います。

 本来の使命とは「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるのです。」(第一テモテ24) そのために「、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き18) と言われているように、自分たちが救われて、恵まれて終わりではなく、真のキリストの弟子、キリストの証人となることです。

 そんな姿を持っていた人々として、福音を伝えた者たちをユダヤ人たちが激しく迫害した中で救われたテサロニケ教会のキリスト者たち(使徒の働き17)をあげることができます。パウロは、彼らについて次のように言います。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆるところに伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。」(第一の手紙16~8)「兄弟愛については、何も書き送る必要がありません。あなた方こそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちだからです。実にマケドニヤ全土のすべての兄弟たちに対して、あなたがたはそれを実行しています。」(49~10a) テサロニケ教会は、一人ひとりが主と深く結びつき、そして信者同士が受け入れ合い、又自分たちの教会ばかりでなく、近隣の信者をも大切にしていたのです。そして、そういった姿がまだ主を知らない人々に対して豊かな伝道になっていたのです。

 

続いて、その本来の使命である異邦人伝道をして来た自分の歩みについて語ります。(16) いくつかの注目すべきことを言っています。異邦人に福音を伝え、祭司の役割をする~異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた(神の側に取り分けられた)、神に受け入れられる供え物とする、神にあって生きるようになる~ことは、神からの恵みであり、福音によって行っていることであり、キリストにある誇りであると言うのです。堅い表現ですが、異邦人伝道こそ、主から託された恵みの使命であり、生涯の誇りであると言うのです。主を知るまでは、強い選民意識を持ち、律法を知らない異邦人など視野にも入れていなかったパウロがその異邦人に福音を伝え、その信仰のために労することこそ、誇りであると言うのです。

 何故、そのような生涯を送るようになったのか。勿論、主によって特別に召されたからですが(使徒の働き915)、 パウロ自身の内にも「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(116~17)と言うように、主の福音こそが世界中の全ての人にとって必要であるという強い確信があったからです。

 そして、異邦人伝道に尽くして来たこれまでの歩みについて語ります。(17~21)どんな時にも、自分の力というより、キリストがことばと行い、又しるしと不思議をなす力により、御霊の力によって伝道の働きをなしとげてくださった、そのゆえに遠く離れたギリシヤまで伝えることができた、私はその方に導かれて、誰もまだ伝えたことがない未伝地の人々に福音を伝えて来たと語ります。しかし、そんな伝道の歩みは喜びとともに試練の連続でもあったことを忘れるべきではありません。(第二コリント1123~29) パウロは決して順風満帆に伝道者としての生涯を送ったのではないのです。ただ、主のために生き、主のために死ぬ思いで過ごしていたのです。

 

最後に今は、苦難の中にいるエルサレム教会の信者のための救援の働きをしているが、私のビジョンのために祈って欲しいといいます。(22~33) 何故、わざわざ今はエルサレムの貧しい人々のために救援活動をしていると言うのでしょうか。現在の状況説明ですが、神の国の全体、主を信じている者たちの全体の姿をも大切にしたからです。自分の使命は、はっきりしていますが、同時に今緊急に必要とされている事柄のために主の働きを行うという徹底したしもべとしての姿を持っていたのです。パウロの主に対する奉仕は、自分の功績が認められることが目的ではありませんでした。ですから、自分には主から与えられた生涯のビジョンがありますが、今求められていることを行っているというのです。

 そして、主から自分に与えられている使命は、やはり異邦人伝道ですから今の働きを無事に終えて、あなた方の所を訪問し、更に遠くイスパニヤまで行くことが出来るように是非、祈って欲しいと要請するのです。祈りの中で、祈りによって自分の働きをしている自覚しているのです。一人よがりではないのです。教会の祈りの中で働きが支えられているという謙遜な思いです。

 

◆(終わりに) 人生の基準

   本日のこの個所から伝わって来るのは、パウロの思いです。福音宣教に対する非常に強い思いとしかし、自分の考えではなく、主の導きの中で、又人々の祈りによって支えられて行っているという謙遜な姿です。私は、ここに主に仕える者の姿勢が示されていると考えます。

 パウロは13通の書簡の随所で言いますように、主から与えられたビジョンに生きた人物でした。しかし、いつも主のしもべとしての意識を忘れることがなかったのです。人は、その働きが長くなり、また良い成果をあげていますと、廻りの人々が重要人物のように評価し、自分でもそのような気持ちになりやすいものです。けれどもパウロはそうではありませんでした。自分の生涯は福音に始まり、福音に導かれた、福音に仕える生涯であるという意識を強く持っていたのです。

   何故そうできたのか。人生を評価する基準が違っていたからです。人からの、社会からの評価ではなかったのです。こんな者のために十字架の死まで受けてくださった主のために生きることが人生の基準であったからです。そしてこの基準がパウロの人生を豊かなものにしたのです。多くの人は自分が認められることを願い求めます。そして認められないと不満な思いを持ちます。しかし、実はそうではないのです。主のしもべとしての意識に徹する時、人生が豊かになるのです。