大胆に、確信を持って

■聖書:エペソ人への手紙3:813    ■説教者:山口契 伝道師

■中心聖句:私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

 

1.はじめに 

 礼拝は招詞、招きの言葉をもって始められます。私たちは神に招かれている。一人ひとりにそれぞれの生活の場所がありますが、その場から名前を呼ばれ、呼び出されて、いまここに集っているというのです。本日の招詞を、自らに語りかけられている神様の呼び掛けとして受け止めることはできましたでしょうか。マタイ11:28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。「休ませてあげよう」と呼びかけてくださるそのまことの羊飼なるお方の言葉に身と心を預け、憩う。私たちの礼拝がこの神の招きの声に始まっているということを思わされます。この呼びかけの声に対して、本日の箇所の言葉では「私たちは大胆に、確信をもって神に近づくことができる」、神の呼びかけに応えて、「神のみもとに近づくことできる」と言っているのです。パウロはこれを大きな喜びとして力強く語ります。当たり前ではない大きな恵みが与えられている私であること、私たち教会であることを、御言葉から学んでいきたいと思います。さらに、パウロに与えられた使命、私たち教会に与えられた使命を覚える時、この「大胆に、確信をもって神に近づく」ということがどれほど大きな力となるのか、教えられていきたいと願っています。    

 本日の箇所に至るまでを簡単に振り返ってみましょう。エペソ書3章はパウロが自分自身をどのように捉えているのか、これを知らせる言葉で始まりました。「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。」かつて、パウロはクリスチャンにとっての敵、いのちを脅かす迫害者でありました。しかし、今、「私は迫害していたそのお方と固く結ばれ、私がこの手で石をぶつけたお方と分ちがたく繋がれている。キリスト・イエスの囚人となった」とパウロは言うのです。キリスト・イエスの囚人となった。「確かに繋がれているのだ」ということを実感させるものがありました。それは、彼をとらえていた鎖です。現実、クリスチャンのゆえに彼はとらえられ、鎖につながれていました。しかしそれは、彼にとってはキリストと固く結ばれていることのしるしにほかならなかったのです。キリストから逃げ出せば、その鎖にしばられることはなかった。多くの人が見るならば困難の象徴、苦しみの目に見える形、あるいは逆境、挫折として映る重く冷たい鎖です。けれども、パウロにとってのその鎖は喜びのしるし、キリストにつながれていることの、確かに固く結ばれていることの、目に見えるかたちであったのです。

 

 彼はそれを自身の功績とはしていません。決断して選び取ったものではなかったのです。7節では、私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。と告白しています。「神の力の働き」、「与えられた神の恵みの賜物」、「福音に仕える者とされた」。どこをみても、パウロが自分自身で選んで努力して獲得した務めではないことを表わしています。あくまでも神に許され、その場に置かれている者、一方的に与えられた者に過ぎないと告白しているのでした。しかもそれは、押しつけられた務め、使命ではなく、恵みの賜物、すなわち神様からのプレゼントであると喜びにあふれて言うのです。パウロは彼自身を、そして彼に与えられた使命をそのように捉えていたのです。一方的に与えられた恵みの賜物。例え囚人とされたとしても、喜びをもって「異邦人のために」福音に仕える者とされたというパウロ。彼の告白は、本日の箇所でも引き続き言われているものでありました。

 

2.異邦人の使徒パウロ 「異邦人のために」 v8,9 

 v8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、v9また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを明らかにするためです。どこまでも身を低くし、自分は与えられた者に過ぎないということを述べています。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」、パウロはかつてコリントの教会に宛てた手紙の中で、次のように言っていました。「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」(Ⅰコリ15:9)、それから年月は流れ、エペソの教会に宛てた手紙の中では、さらに自らを低くし、「すべての聖徒たちのうちで一番小さい」とする程にへりくだった彼の姿がありました。かつては迫害者であったパウロ。しかし救われてからは多くの人々に福音を宣べ伝え、救いを知らせて来ました。彼を通して主を知り、永遠のいのちへと導かれた人々は日に日に増し、異邦人の地に教会は次々に生み出されていくのでした。その意味で、パウロの功績は決して小さくなく、一種の皮肉を込めてですが、キリスト教はパウロ教であるとさえ言われるほどに、パウロの働きは大きなものだったのです。しかし、福音に仕える者としてのパウロの名が広く知られていく一方で、パウロ自身は自らをとるに足らない、小さな者とするのでした。イエスキリストの弟子である12人の「使徒の中で」どころか、「すべての聖徒たちのうち」で、一番小さいとするのです。生まれたばかりのクリスチャンや、信仰の試みの中で何度もつまずいたクリスチャンがいるにもかかわらず、一番小さいとする。これにはとても珍しいギリシャ語が使われており、直訳するならば一番小さい者よりもさらに小さいもの、という意味になります。最上級の形にさらに比較級の印を付けているこの言葉、実はこれはパウロの造ったあたらしい語であり、彼がいかに小さいかを言い表すために、苦心して造り出したこの言葉を用いているのでした。

 

 ではなぜ彼はそこまで自分を低くしているのか。それは単なる見せかけだけポーズだけの謙遜などではありません。また周りを見渡し、自分の足りなさ弱さ欠けを並べ上げて嘆き卑屈になっているのでもない。確かにここでは「聖徒たちのうちで」として聖徒たちと自分を比べているように書かれていますが、人を見て、その優れたところ劣ったところを比較して、一喜一憂するようなものではありません。彼が見ているものはあくまで神の恵みの素晴らしさでありました。その恵みの大きさ不思議さを知った者として、そしてそれを受けるのに相応しくない自らの汚さを知っている者として、「一番小さい」と告白するのであります。旧約の詩人は歌います。あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。(詩篇8:3-4)まさにパウロもこの思いだったことでしょう。神の御手の偉大さを知り、その恵みを受ける価値なき自分の存在を知り、ただ「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」と率直な思いだったのです。

 しかしパウロは、神がそんなにも小さな自分に大きな恵みを与えられたことの理由を知っていました。神には目的があり、パウロにはその目的を果たすための使命が与えられていたのです。「私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現が何であるかを明らかにするため」である、と。二つの目的が書かれているようですが、これらは別々のことではないと考えられます。奥義とは何か。すでに前回の箇所で教えられていました。6節その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。異邦人もまた救いに導かれ、キリストのからだである教会に加わり、神の国にはいることが許されたということです。なので、ここでのパウロが福音に仕える者とされた理由、こんなにも小さな者に恵みの賜物、福音に仕える者として使命が与えられた理由は、何れにしても異邦人の救いのため、この世にあって神なく希望もない人々に光を与えるためだったと言っているのです。明らかにするという言葉、これは、元々「光」や「明るさ」を意味するものでありました。創造主である神様、その最初の御業は「光があれ」ということばでした。パウロは伝えます。「光が、闇の中から輝き出よ」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。(Ⅱコリ4:6)創造のとき、世界を照らし出したあの光を造られたお方が、私たちの心を照らしてくださった。暗やみに冷たく死んでいた私を暖め、神とともに生きるようにと、キリストのからだに連なって神の家族と共に生きるようにと、救いを届けてくださった。パウロはその良い知らせを運ぶため、まことの光を届けるため、神に召された器に過ぎないと、自らを捉えていたのでした。そこには卑屈な様子は一切なく、こんなものにこんなにも大きな恵みが与えられたと、こんなにも大切な使命が与えられたのだと、ただただ神の栄光をあらわすのがパウロなのでした

 

 「目から鱗」という表現がありますが、あれは、このパウロの救いに深くかかわるところであります。それまで彼の目を塞いでいたものがありました。彼自身もまた、暗やみの中にあったのです。いや、本人はそんなことに気づいていませんでした。知識がありユダヤ人の中でエリートであったパウロは誰の目にもすぐれた人物であり、順風満帆な人生を歩んでいたと誰もが疑わなかった。しかし、その目にはうろこのようなものがあり、本当の光を見ることができなかったのです。そんなパウロ自身が光に照らされ、その温かさに包まれた者として、その光を届けようとしている。このように考えるならば、パウロをつきうごしていたもの、囚人となりながらもなお歩みを止めようとしない宣教の力の源となっていたものが、彼自身の救いの体験にあることが分かります。彼の目に飛び込んで来たまことの光、本当の輝きです。そして、それは私たちの使命でもあります伝道を考える時も同じではないでしょうか。私たちはやれと命じられたからするのでしょうか。私たち自身が体験した救いの喜び、世界がきらきらして見えたあの輝きを、伝えたいからではないでしょうか。いつも私たちの救いの輝きに立ち返らされ、その輝き、喜びを伝えるために遣わされるものでありたいと願います。

 

 少し脱線しましたが、本文に戻りv10,11これは、今、天にある支配と権威とに対して教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠の御計画によることです。解釈が分かれる、意味が分かりづらい箇所でありますが、二つのことを簡単に確認しておくことにとどめたいと思います。順序は前後しますが、一つはパウロの使命、これまで見て来ました「異邦人へと救いが広げられる」という出来事は、イエス様の十字架によって実現した神の永遠の御計画であるということ、もう一つは、そのキリスト・イエスにおいて成し遂げられた神の永遠の計画は、同じキリストを首とする教会を通して示されていくということです。一点目は、私たちの救いは神の永遠の計画によっているということ、つまり、何かの偶然で、あるいは神様の気まぐれで救いが与えられたのではない、ということを教えます。偶然、なにかのはずみで与えられた救いであるとしたら、その救いはひどく不安定な、同じ偶然、何かの弾みで取り去られてしまうようなものとして、私たちはびくびくしながら過ごさなければならないでしょう。しかしそうではない。創造のときから、いや世界の基の置かれる前からの計画の中で、イエス様の十字架による私たちの救いはすでに用意されていたのだと教えるのです。これはすでに一章で言われていたことですので、あとでご覧いただけたらと思います。

 

 そして二点目、今確認しました神の永遠の御計画による救いは、教会を通して、広く示されていくのです。示すものは「神の豊かな知恵」、示される対象は「天にある支配と権威」とあります。これが何を意味するのかで解釈が分かれ、ある者は天使であるといい、あるものは悪霊であると言います。それゆえに理解するのが難しい箇所なのでありますが、今日は、私たちがすでに見ました一カ所を開くことでとどめます。1:2023 イエス様はこのようないっさいのものの上に立つ首であり、教会は、そのお方につながるからだである。であるのだからこそ、キリストの体なる教会は、首なるキリストによってもたらされる救いを述べ伝えるのであります。いっさいのもの、天にあるものも地にある者も、キリストの下にあり、キリストによって注がれる神の恵みを知らなければならない。実に教会の役割はこの一事に集約されるのであります。本日は役員会がありますし、来週には教会総会が予定されています。そこで話されることは、あるいはとても具体的、現実的な問題と言えるでしょう。しかしそれは、天にあるもの地にあるもの、いっさいのものへと神の恵み、その豊かな知恵を知らせるという教会の役割につながる大切な事柄であることを覚えて、備えていきたいと思います。教会の使命から目を離さずに、目の前におかれております一つ一つの事柄を考え、決断していく。そのような見方を、忘れては行けないのであります。

 

3.大胆に、確信をもって神に近づく幸い v12 

 さて、ここまでパウロ自身の使命について、そして教会の使命について、さらには、それらが神の永遠の計画のうちで定められていたことを、駆け足ではありますが、見て来ました。そして、本日の中心聖句とさせていただきました12節が続きます。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。「このキリストにあり」。直前を見ますと、神の永遠の御計画を成し遂げてくださった存在としてのキリストが語られていました。繰返しになりますけれども、神の永遠のご計画、それは神なく望み無き異邦人たちをも救いへと導くご計画でありました。罪に死んでいた者にいのちを与える、世界の基の置かれる前からの計画です。言い換えるならば、神の家族として、愛する子とよび、温かく抱きしめてくださるお父さんの呼び掛け、ということができるでしょう。優しく名前を呼んでくださる声に、身を委ねることができる。その声に答えて、神に近づくことができるのです。「大胆に」これは言葉における自由、いわゆる言論の自由と関わりを持つ言葉です。もっとくだけて言うならば、どんなことでも率直に話すことができる様子であります。自分の心の不安やモヤモヤしていることを相談できる、あるいは嬉しかったことを満面の笑みで伝えることができる。親子の親密な関係を表す言葉であります。さらに「確信をもって」、別の訳では「信頼して」と訳されます。信頼、という言葉はよく用いられますが、それがとても難しいことであると感じた経験があります。確かにあると分かっている助けなのに、委ね切ることのできない自分の姿に気づかされ、ましてや目に見ることのできない神様を信頼する、ってどういうことなんだろうと考えさせられたのであります。もしかしたら、心から信頼できるようになるにはたくさんの時間がかかるのかもしれません。しかしパウロは無理難題としてこれを言っているのではありません。私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。あなたがたの実感はどうであれ、そのような者とされているのだ、恵みとして許されているのだ、あなたが受けているのはそれほどまでに大きな恵みであるのだと、教えるのであります。

 

 そしてこれこそが、私たちの力であるのです。先ほど、パウロの宣教の源に、彼が光に包まれた、まことの光に出会ったあの体験があったと言うことをお話ししました。だからこそ彼は、やみの中へ光を届けるために遣わされていくのです。さらに、そのようにして始まったパウロの使命は、この、「大胆に、確信をもって神に近づく」ということで支えられるのだということを今晩、共に覚えたいのであります。パウロは喜びをもってこの神に近づくことの幸いを語ります。それはかつての、神との断絶、高くそびえる隔ての壁を知っている者の真実な喜びであります。隔ての壁は打ち崩され、神の家族として招かれている。

 

 冒頭にもお話ししました。この神に近づくということ、それは私たちの救いを意味すると同時に、神の招きから始められる、私たちのささげる礼拝に他ならないのです。私たちは神に招かれ、その呼掛けに答えて、大胆に、確信をもって神に近づくことができる。父の温もりを感じられるほどの親しい交わりをもち、目には見えなくとも確かにそこにある助けとして信頼することができる。そして、わたしがあなたがたを休ませてあげようと言われるその主のみもとで安心して憩うことができる。これほどまでに大きな恵みが与えられているのです。

 

4.まとめ 

 パウロはこの大胆に、確信をもって神に近づくことによって力を得ていた。彼の宣教はこの神との親しい交わりに支えられていたのです。13節ですから、私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないようお願いします。私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです。1節のキリスト・イエスの囚人とも同じ、パウロの現状が言われています。しかしそこには、今彼が直面している困難を嘆いたり、怨み節をこぼしたりはしていないのです。その苦難は、その苦しみは、あなたがた教会の光栄となる。苦しみは苦しみで終わらず、悲しみは悲しみで終わることがない。パウロの確信は、直前の12節、神に近づくもの、神との親しい交わりにいかされている者の、信仰の力であります。そして私たちもまた、大胆に、確信をもって神に近づくことができる者とされている。この大きな恵みに励まされ、主の招き、礼拝から始まる新しい週の歩みを始めてまいりましょう。