主の望みを持つように

説教 川口昌英 牧師

聖書個所 ローマ人への手紙151~13

中心聖句 

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 ローマ1513

 

説教の構成 

◆()この個所について

 続けてキリスト者同士の交わり、繋がりについて語ります。力のある人、ない人とは、人間的強さや社会的強さという意味もありますが、より中心にあるのは霊的に強い人、弱い人という意味です。自分に与えられている神の愛、恵みの大きさ、深さを知り、また御霊による慰め、力をいただき、天の希望に満たされ、どのような状況の中にあっても主にある者として生きようとしている人と、悔い改め、主を信じているが、まだ肉に属する者、キリストにある幼子と言われている、霊的に成熟していない人のことです。(コリント31~3)

  パウロは、力のある者たちに対して、非常に強い語調で語っています。「弱さを担うべき」「自分を喜ばせるべきではありません」「隣人を喜ばせ、その徳を高め」「その人の益となるようにすべき」という表現です。してもしなくても良い、したほうが良いという程度ではなく、しなければならない、する必要があるというのです。「弱い人」の弱さを裁かず、受け入れ、認め、信仰者としての喜びが深まり、その姿勢が確かになり、成長するように行動すべきと言うのです。

 これは容易ではありません。非常に忍耐が求められますし、しばしば 誤解や非難されることがあります。パウロと悔改める前のコリントの教会の関係がそうでした。ご承知のようにパウロたちの宣教によって生まれた、ギリシャの異教的雰囲気が強い都市に誕生した教会ですが、彼らが去った後、誰につくかと分裂状態になったり、互いを教会外の公的機関に訴え合ったり、又不品行に対しても教会としての処罰も下せないなど本来の教会とほど遠い状態になったのです。それでいながら、その状態のことを聞き、祈り、心を配り、支えようとしたパウロを蔑み、その意見を聞こうとはしなかった人々でした。そんな対応をしたコリントの人々でしたが、パウロは、彼らを見捨てず、繰り返し、人や手紙を送り、遂に彼らが主の前に悔改め、砕かれ、真の信仰が復興するまで祈りながら行動したのです。

 

◆(本論)弱い人を顧みる理由

何故、このように求められているかについて、次のような理由をあげています。まずキリストでさえ、自分を喜ばせなかったと言います。このキリストでさえという意味は、聖書の中心、神であり、栄光に満ちた方である主でさえご自分があがめられることを望まなかった、むしろ、誕生、生き方、そして最後の姿からはっきり分かるように、人々の救いのために、すべてをささげきった、目立たない、隅のかしら石となる歩みをされたということです。

 そんな救い主としてのご生涯そのものを現していることばが「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ1128~30) だと思います。このことばは、仕えられるためではなく、仕えるために来られた主イエスの中心、本質を伝えています。

 信仰の創始者であり、完成者である主でさえ、自分の栄誉、評価をいっさい求めなかったのです。ただ、罪と死の支配に覆われた人を救うために全てを与えられたのです。

 

続いて、二つ目の理由をあげています。昔からの神にあって生きた人々の例です。それについて4~6節ではこう言います。(朗読) 昔書かれたものとは、旧約聖書、旧約に出てくる人々の生き方のことです。それらが書かれたのは、今の者たちに対して、神にあって生きる姿を教えるためで

あり、彼らから伝わって来る忍耐と励ましによって、神にある者としての希望を持つようになり、そうして自分を喜ばせるようなことを一切しなかった主にふさわしく、互いに同じ思いを持ち、心を一つにし、声を合わせて、主イエスの父なる神をほめたたえる者となるためであるというのです。神にあって生きた者は昔からそうであったように、主があなたがたをもそうしてくださるように願っているのです。

   そんな昔の人の生き方の姿がはっきりしているのが、この間もとりあげたエジプトからの解放者モーセです。詳しく見ることはしませんが、繰り返すように、モーセは自分の思いとしてはとてもその召命に応えることは出来ないと思っていました。しかし、深く導かれ、取り扱われ、奴隷とさせられていた同胞のためにすべてを委ねて立ち上がったのです。ヘブル11章では「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえにそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼はむくいとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル1124~27)と記します。信仰によって、モーセは自分のためではなく、同胞とともに苦しむ生き方を選んだのです。

 このモーセによって、イスラエルの民たちは隷属状態から解放され、紆余曲折はありましたが、約束の地に入り、神をほめたたえることが出来るようになったのです。

 

最後に強い者が弱い者を顧みるように言われている究極、そして壮大な理由を明らかにしています。7節から12節です。

 主、又昔の人々がそうしたのは最終的にまだ救いを知らない異邦人も神をほめたたえるようになるためであったと言います。アブラハムに語られた約束のことばを思い起こします。(創世記121~3) 神がアブラハムを選び、彼に託されたのは、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」ためでした。繋がりが分かりにくいかも知れませんが、力ある者が力のない人の弱さを担うべきと言うのは、神を信じている者が、互いに同じ思いを持ち、心を一つにし、声を合わせて主を与えてくださった父なる神をほめたたえる人生を送り、そしてそのような姿を通して、すべての異邦人も罪に気づき、悔改めて主をほめたたえるようになるためであるというのです。神の民たちの生き方が全世界に対して、深い影響を与えるというのです。

 

◆(終わりに)この生き方こそ恵みがある

 最後に13節において、人々のために祈っています。豊かな希望を約束してくださっている神が信仰の喜びと平和を満たし、また豊かに働いてくださる御霊によって全世界の人々が主をほめたたえるという希望にあふれる者としてくださるようにという祈りです。世界中の人々が福音を知り、主をほめたたたえるという大切で壮大な目標を持って生きるようになるという祈りです。

 そのために、弱い人々、例えば厳しい状況の中にあって信仰において迷いがちな人と共に生きることこそ、大切であるというのです。

 私はこの個所は私たちの人生においても、又教会にとっても大切なことを示しているところだと思います。共に生きることによって本当に大切なことに気づくのです。強い人が与えてばかりではないのです。実は、弱い人によって、見逃していたこと、本当に大切なもの、例えば誘惑の強さ、或は信仰の中心を教えられるのです。主が真ん中におられる生きている教会は強い人も弱い人もいる群れです。一枚岩のような姿は一見、すばらしいのですが、主の教会ではありません。 

 自分が認められ、評価されることも喜びかも知れません。しかし、本当の喜びは共に生き、主のすばらしさを現し、そしてまだ主を知らない人々が主を求めるようになることなのです。それを再認識しましょう。そして現代日本の中で主を中心とする教会を立て上げましょう。