人の見方、主の見方

川口 昌英牧師

人の見方、主の見方

❖聖書個所 ルカの福音書8章40節~48節

❖中心聖句 

そこで、イエスは彼女に言われた。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」 ルカ8章48節

 

❖説教の構成

◆(序)主の時代の女性

 この時代の女性についてよくまとめられている論文がありますので紹介します。デイビッド・インストン=ブルーワーという学者によるものです。

 「紀元1世紀、ユダヤ人の女性の生活は、大幅に制限されていた。都市部では、女性はめったに家を離れることができず、会堂に行ったり、ものを売りに出かけたりする際は、全身を覆い隠さなければならなかった。農村部では、女性は屋外で働いたり、水を汲みに出かけたりしたが、女性だけで外に出ることはなかった。

男性は、知らない女性に話しかけるようなことをしなかった。女性と話をしないことが、敬虔であることのしるしであった。

 女性はまた、学校に通うこともなかった。会堂の礼拝でも、教えがなされる場に集うことはできなかった。それは、『男性の部屋』でなされたのである。女性は教えることもできなかったし、家族で食事をする際に祈りをささげることもできなかった。

 女性は、結婚するまでは、父親に属するものとされた。結婚してからは夫に属するものとされ、寡婦になった場合は、息子たちの世話を受けた。

 裁判でも女性が証人になることは許されていなかった。女性が神に誓いを立てても、夫がそれを無効にできた。

 夫は、二人目の妻をめとったり、そばめを持ったりすることができ、あらゆる理由で妻を離婚できた。妻の側から離縁する場合は、陪審員に自分がなおざりにされていることを認めてもらうことが必要であった。妻の言い分が認められた場合、夫には、妻を離別するまで罰金を支払う義務が課せられた。

 以上のような理由から、女性が生まれることは、喜ばれないことが多かった。日々の祈りには

『女性として生まれなかったことを神に感謝します。』ということばもあった。

 女性に対するイエスの態度は、以上のような状況と完全に対照をなすものであった。イエスは、女性を弟子にした唯一のラビである。中核となる弟子はみな男性であるが、さらに大きなくくりの中には、何人かの女性の名前があげられている。たとえば、マルタとマリヤはイエスと近しい友人で、イエスは二人に教えるために時間を費やしている。何人かの女性はイエスと一緒に旅をし、イエスの働きを支えた。(ルカ8:1~3)

 イエスは、男性は、ただ一人の女性のみを妻とすべきであり、結婚は死ぬまで続くものと教えた。(マタイ19:1~6) また、悔い改めた遊女は、多くのユダヤ教指導者よりも神に近い者であると教えた。(マタイ21:31) イエスは、遊女が公の場でイエスに香油を注ぎ、イエスの足に口づけすることも許している。(ルカ7:36~50)

   イエスが十字架の後、復活した姿を最初に見たのは女性たちであったが、福音書は、この女性たちの証言を有効なものと認めている。」(カラー新聖書ガイドブック P589より)

 

◆(本論)主が明らかにしたもの

①長々と引用しましたが、主が人のかたちをもってこの地上に来られた時、女性は従的存在とされていたのです。しかし、主ご自身は全く別の姿勢を持ち、別の見方をされたのです。

 本日は、その中の一人、群衆の中で人込みにまみれ、イエス様に触れ、長年の苦しみから解放された一人の女性について見て参りたいと思います。

 この人は、今日見ておりますように、当時の一般的考えからするならば、考えられないような非常に大胆なことを行い、そして常識では、考えられないように取り扱われている女性です。

 主は、この時、娘を助けて欲しいという緊急の要請を受けて会堂司の家に向かっていた途中にあり、一刻も猶予ができない状況でしたが、必死の思いをもって主にすがり、遂に長年の痛みから解放されたこの婦人のために立ち止まり、対話を通してその思いを受けとめ、肉体の苦しみだけでなく、長年抱えていた苦しみの源をとりのぞき、神はあなたを決して見捨てないという生きて行く新たな希望、救いを与えておられるのです。 

 その他、よく講壇でとりあげますルカ7章の婦人の場合も同じです。(ルカ7章36節~50節) この人の場合も、当時の女性についての考えからするならば、その家の主人を始め、その場に居合わせたパリサイ人たちにとっては到底、受け入れることができない人でした。人々が集まる所に出ることがゆるされていない女性というばかりでなく、罪深い生活をしていることで町中の者に知られている婦人なのです。ですから、入って来ただけでも人々は仰天したのですが、この婦人は誰もが驚くような行動を次々としたのです。ところが、主はこの婦人が入って来た時から一言も発することなく、そしてこの婦人の行うことを静かに受け入れておられるのです。そして内心でつぶやき、強い否定の思いで満ちていた、この家の主人、バリサイ人シモンを諭し、最後にこの婦人に対し、8章の女性に対するのと同じことば「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(7章50節)と言われているのです。

 

②主は何故、そのようにされるのか

 主は何故、当時の人々に真っ向から反対するような見方をされたのでしょうか。まず、いくら社会的に浸透し、大きな力を持っているとしても、主は人の作り出した考え、制度、男はこうあるべき、女はこうあるべきという考えに支配されることはないゆえです。神が深い御心によって男と女とに人を創造された、従って性質と役割の違いがありますが、何よりも男性、女性も神の息を吹き込まれた、ともに同じ神のかたちであることを重視しています。そのゆえに、男は先に置かれる性、女は後ろに置かれる性という考えをしていません。

 人は得てして、どんな問題をもその時代の文化、制度の中で考えますが、主は神のかたちとして創造された人格の問題として受けとめようとしているのです。先ほどの例では、その出来事があった時、周りにいた者たちはその者が女性であったから、又特別の理由がある者だったから、ただ非難と蔑みの目で見ていたのです。しかし、主にとってそんな人々の考えは少しの影響も与えないのです。主にとって、男性、女性である前に、救いを求めている神のかたちである存在であるからです。ですから、人々から奇異な目を持って見られても、深い愛を示されたのです。

 

◆(終わりに)主のまなざしを知る時、人は生きる喜びを知る

 本日は、低く見られていた女性を主がどのように見られたのかを見て来ましたが、これは今苦しい状態に置かれている人にとって非常に大切なことを示しています。人間の常識、制度の中でどうにもならないと思われている人にとっても主は特別の思いをもってご覧になることを示しているからです。例えば、老い、又病気になっている人に対して、人は得てして、表面を見ます。そしてただ大変だと見ます。多くの場合、その見方だけです。しかし、主は勿論、苦しみ、悲しみを受けとめますが、同時に神のかたちとして愛されている者として見ます。健康な人とか若く元気のある者のみを愛する方ではなく、今、年老い、病気になっている状態そのままを愛しておられる方なのです。ですからどんなに絶望している人も主を知る時、希望を持ちます。何故なら、こんな深くて確かな愛はないからです。私たちの人生、教会、国、世界を勇気づけることができるのはこの主だけです。どんな人をも大切にみていて下さる方だからです。この主のもとに来てください。