本末を正しく

説教 川口 昌英牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙14章13節~23節

❖中心聖句 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」                ローマ人への手紙 14章17節

❖説教の構成

◆(序)この個所について

 約二ヶ月ぶりにローマ書に戻ってきました。信仰者として現実社会にあって生きていくために、クリスチャン同士の交わりが大切であるという続きです。その交わりについて、互いに裁き合わないようにすべきということから進んで、「いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまづきになるものを置かないように決心しなさい。」(13節)と勧められています。そして、その理由が言われています。「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(17節) 最後に、このように互いに神の国に属し、神の国の拡大のために召されている者ですから「……私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。」(19節)と交わりの目指すべき目標を明らかにします。

◆(本論) 神の国は、義と平和と聖霊による喜びである

①「私たちは、もはや互いに裁きあうことのないようにしましょう。」については前回見ましたので、今回は、更に進んで「いや、それ以上に、兄弟にとって妨げになるもの、つまづきになるものを置かないように決心しなさい。」と言われていることから見て参ります。

 まず「兄弟にとって妨げとなるもの」「つまづきになるもの」とは、他の人々が主にあって生きることを妨げるもの、主の道を行くことが出来ないようにするものという意味ですが、具体的にどういうものであるのか判定することは決して容易ではありません。何故なら、一人ひとり、妨げ、つまづきを感じる内容、また段階が違うからです。例えば、アルコール依存症だったが、今はクリスチャンになっている人にとってはほんの少量のお酒でも危険になります。そんな人に対して、長い間信仰生活を送って来た人が、聖書はお酒を禁じてはいない、ただ酔ってはならないと言っているだけだ、少しぐらいは大丈夫と言うならば、それがどこかに残り、やがて深刻な結果をもたらすことがあるのです。

 その他、あらゆることがそうです。言う人にとって何でもないことが聞く人にとって妨げ、つまづきになることがあるのです。そう考えると妨げとなるもの、つまづきになるものを置かないということは大変に難しいです。私も多くそういう経験をしました。思ってもいないことについて、牧師はこう言った、ひどく傷ついたと言われることがあります。反対に、私自身が言われたことばで深く傷ついたこともあります。こう考えると妨げとなるもの、つまづきになるものを置かないということは、非常に困難なように思います。互いが6節、7節(朗読)に言われていることに立ち続け、謙遜、悔い改めの思いを持つなら、一時的には、危機的状況になったとしても回復し、赦し合うことができるのです。ですから、大切なのは人間的にならず、主を中心として交わりを持つことです。

 

②クリスチャンとして世にあって歩むために、良き交わりが必要であり、そのために、互いに妨げになるもの、つまづきになるものを置かないように決心しなさいと言った後、続いてその理由を述べています。14節~17節です。

 食べ物を巡る意見の違い、特に初代教会時代、大きな問題とされた偶像にささげられた肉を食べることについての対立を例にあげ、キリストにある者としての考えを明らかにしています。14節です。偶像といっても人が作ったものであり、従って、それにささげられても汚れた物になるわけではなく、それを食べても何の問題にもならないが、その偶像に長い間とらわれていた良心の弱い人にとっては汚れていると思えるものであり、従って、ただ自分の確信に立ち、弱い人のことを考えないならばもはや愛によって行動しているのではない、キリストが代わりに死んでくださったほどの人を食べ物のことで滅ぼすようなこと、信仰者として生きようとしていることから追いやらないでくださいと言います。(15節) あなたがたが良いとしている事柄によって、そしられないようにしなさいとは、自分自身が良いと思うだけでなく、人々を配慮しなさいという意味です。

 何故、そのように言うのか、17節でその本質的理由を述べています。神の国とは、神のご支配のことです。それは一人ひとりの救いの生活、信仰生活のことであり、また神を信じている人々、それぞれの教会のこと、キリスト者全体のことでもあります。(マタイ16章18節) パウロは、個人の信仰生活、教会、キリスト者全体にとって本当に大切なのは、例えば食べ物についての意見ではなくて、義、神とのただしい関係、神に受け入れられていることであり、平和、真の平和、主を中心として互いに認め合うことができることであり、喜び、人間的な喜びではなく聖霊による喜び、状況が変わっても決して奪われることがない喜びが与えられていることであると明言するのです。これはとても大切なことばです。

 

③ここで飲み食いとあり、食べ物に関することが言われているのですが、それに限定する必要がありません。ちなみに、現代の教会について言うならば宣教の方法や讃美の種類などをあげることができるでしょう。ある人は宣教のためのプログラムを立て、それに沿って教会員を教育すべき、或は讃美についても直接的に心情が現れるものが望ましいと考えています、それに対して、ある人は特別のプログラムよりも日頃の礼拝や祈祷会、日々の信仰生活の充実に心を配り、身近な人々への証しを大切にすべき、又讃美についても会衆全体が共に合わせるような讃美が望ましいと考えています。これらは信仰生活、また教会にとっても大事なことですから、軽く考えてはなりませんが、みことばが言うように、神の国の本質、義、平和、聖霊による喜びに関わることではないのです。それぞれ、賜物と状況にふさわしく良いと思われるものを行えば良いのです。キリストが代わりに死んでくださったほどの人(それほどまでに愛されている人)を、伝道の方法や讃美の種類などで滅ぼしてはならないのです。

 

◆(終わりに)互いの成長になるような交わり

 主にある交わりの大切さを訴えるにあたって、最後に、それぞれ神の国の一員とされ、その恵みの拡大のために召されている者ですから18節~19節(朗読)と勧められています。 神に喜ばれるような、又人々にも認められるような交わり、それは平和に役立つ、互いの霊的成長に役立つような交わりです。そんな関係を追い求めましょうと言うのです。

 これらを見るならば、パウロは教会で現実に起きていることに惑わされていないことが分かります。当時、教会によって違っていますが、さまざまな問題を巡って意見の対立がありました。旧約の民、ユダヤ人をどう考えるか、律法をどう受けとめるか等信仰の本質に関わる問題やここに取り上げられているような偶像にささげられた肉をどう考えるかなどの具体的問題などです。そのため、内部的な対立になり、あたかもそれらが信仰生活の一番重要な問題のようになっていたのです。それらに対し、パウロは現実に起きている問題に翻弄されることなく、いつも本質を見ています。そして大きな目標を見ています。私たちにとって本当に大切なのは神の国です。そして、その神の国とは義と平和と聖霊による喜びです。ですから、この豊かな恵みが拡大するように互いのことを思いやる、又互いに主を見上げて、主のために生きる交わりを目指しましょうと言うのです。私は、その実際的例として、第Ⅱテモテ1章3節~4節の姿をあげることができると思います。祈りの中で思い起こしている、また涙を覚えていることが中心にある交わりです。私たちも互いにそういう関係を目指し、困難であるこの国で主のすばらしさを証しして行きましょう。