福音に仕える者

■聖書:エペソ人への手紙3:17   ■説教者:山口契 伝道師

■中心聖句:私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。

 

1.     はじめに 

 一年の初め、思いがけず何日か外出禁止の日々がありましたので、この年の目標などを考えながらのんびり過ごしていました。ぐるぐると思いを巡らせていたところ、つまるところ、私は何に期待してこの一年を始めようとしているのかと言う問いになってきました。皆さんはどうでしょうか。そしてそのように思いめぐらす中、説教の備えをしているうちに、本日の説教題、また中心聖句ともさせていただいた言葉に出会いました。もう一度七節をお読みします。私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。教会で、神と人に仕えたいと願って献身を志しました。何にもありませんが、こんな者でも良ければお用いくださいと祈り、神学校へと入学、そしてこの金沢に遣わされて三年目を迎えようとしております。そんな私にとって、「福音に仕える者」というパウロの自己紹介にも似た言葉は大きな使信となりました。別の訳では、福音のしもべとも言われています。多く目を向けていかなければならない現実の事柄があります。問題は山積みで、その一つ一つに心を奪われることがある。しかし、私が伝えるべき言葉、仕えるべきものはただこの福音だけである。その本質を忘れてはならないと言うことを改めて思い、そしてそれは、私たちの教会のあるべき姿でもあると、思わされています。「福音に仕える者」、「福音に仕える教会」について、御言葉に聞いてまいりましょう。

 

1.     キリスト・イエスの囚人パウロの神の恵みによるつとめ  

 本日の箇所、3章は次のように始まります。3:1こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。説教の備えをする中で度々立ち止まって考えたいものが、このような接続詞であります。「こういうわけで」。2章の後半、11節以降を受けて、これから話しはじめますよ、と仕切り直しているのです。では直前の箇所では何が語られていたのか。この世にあって望みもなく神もない人たち、すなわち救われるはずがないとされていた異邦人であるエペソの人々。しかし彼らには、イエスキリストの十字架によって、救いがもたらされた、ということ。それが言われていたのです。その救いがもたらされたと言うことを、平和、和解をキーワードに、力強く述べてきたパウロです。一つの頂点として、v19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。かつての望みをもたず神もない人々は、神の家族として温かい食卓へ迎え入れられ、神のものとして取り分けられた聖徒たちと同じ国民として、天の国籍を持つ者、素晴らしい宝が約束された者とされたのでした。

 そのような異邦人への素晴らしい恵みを語った2章後半を受けて、「こういうわけで」と続けるのです。こういうわけで、あなたがた異邦人のために、キリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。私たちの救いというものは、ある日気づいたら、勝手に身分が変わり、望みが与えられ、神がともにおられるようになったというものではありません。隔ての壁が打ち壊され、神の家族として食卓に着いているのではない。そこには、2章の後半で語られた良い知らせ、救いが私たちの下へと広げられているという事実を告げる存在がいて、はじめてその恵みを知ることができるのです。私たちもそうでした。家族から、友人から、同僚から。あるいは直接聖書を開いたと言う方もいるかもしれません。しかしそのような場合でも、私たちが読んで知ることのできる聖書の背後には実に様々な働き手がいて、私たちはみことばを味わうことができている。陸上競技、リレーを考えると分かりやすいでしょう。お正月には駅伝もありましたが、一人ひとりがたすきを繋ぐように、良い知らせは届けられていき、そして手紙を受け取るエペソの人々、何より今日の私たちへともたらされたのであります。パウロ自身が、そのようなたすきを繋ぐひとりであったと言っているのです。あなたがた異邦人のために。かつては救いをもたず望みを持てないでいたあなたがたのために。神からも人からも隔てられた壁に囲まれ、ひとりでうずくまっていたあなたのために。パウロは神の救いを語った後、その救いを宣べ伝えた自分自身について語ろうとしているのであります。

 

 そんなパウロが自分自身を「キリストの囚人」と言うのは面白い表現です。事実、パウロはキリスト教宣教がきっかけとなって逮捕され、牢獄へと入れられていました。その手には現実としての重みがある鎖を感じていたのです。当時の牢獄については様々な意見がありますが、しかし程度の差こそあれ、「囚人」とは、自由を持たないもの、或いは自由が制限された者であると言えるでしょう。それと重ね合わせたのでしょうか、パウロはキリストの囚人、捕われ人となったと言っているのです。さて、クリスチャンになるということ、洗礼を受けると言うことは、このような自由が制限されることではないかと、洗礼準備の時によく耳にします。すでに洗礼を受けている家族や周りのクリスチャンたちを見て、そのように感じているのだろうかと、はっとさせられます。自分自身を振り返ったとき、無理矢理にでも力を奮い起こして奉仕をしていたことはなかったか。礼拝に出席することを、何かのノルマのようにしてはいなかっただろうか。果たしてクリスチャンとしての自分に、喜びはあったのだろうか。多く問われます。パウロはなぜこのような、一見否定的にも思われる表現を使っているのでしょうか。自由がなく、それゆえに喜びもなく、言われるがままに働き、疲弊している自分の状況について、不満の気持ちを込めて「囚人」と言っているのでしょうか。

 しかし「キリスト・イエスの囚人」となったパウロは言うのです。v2あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私のつとめについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。あなたがたのために、と一節の言葉を再び繰り返し、言い換えているのでした。「神の恵みによる私のつとめ」。パウロは自分自身が今捕われていると言う現実をそのように受け止めていたのであります。そこには一切の含みなく、ただ神の恵みであると言うのです。「キリスト・イエスの囚人」という言葉については後ほど、もう一度触れますが、パウロは神様からの恵みであるとしてこれを受け止めていると言うことを覚え、その具体的なつとめの内容について見ていきましょう。キリストの囚人となり、神の恵みによるつとめを与えられたパウロでした。その目的は一つ、あなたがたのため、もう少し言うならばあなたがたの救いのためでした。あなたがたのための、まさに投獄されることも苦ではないほどの喜びに満ちたつとめ。その内容が36節に書かれています。

 

 

2.     「つとめ」の内容、知らされた奥義 〜2章後半を振り返って〜 

 まず35節をお読みします。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。2節とのつながりが分かりづらい箇所ですが、なんとなく、彼のつとめには「奥義」と呼ばれるものが深く関わっているのだということに気づきます。パウロ自身はどのようにこの奥義を知ったのかが今お読みしました35節に。そして6節ではその知らされた奥義がいったいなんであるのかを説き明かしています。この35節を読んで分かることは、彼らに伝えるもの、奥義は、パウロ自身が何かの学びを積んで得たものでも、知恵を絞って造り上げたものでもなく、彼自身が与えられたものであると言うことです。知らされた、という言葉からもそれは分かります。

 

 啓示によって、御霊によって、とあります。啓示とは、それまで本体を隠していた覆いがとれることを表わします。光の源はヴェールによって隠されていました。しかしそのおおいは取りのけられ、光は輝きを放つ。それが啓示のイメージするところです。さらにそれは、御霊によって、すなわち神様によって明らかにされるのであります。この手紙を記しましたパウロ、奥義を知らされたという彼の回心は有名であります。詳しく見ることはできませんが、彼は当時サウロと言う名で、キリスト者を迫害し投獄するユダヤ教徒でした。知恵もあり力もあり立場もあったサウロの名を聞くだけで、クリスチャンは震え上がったと言います。使徒の働き9章ではこのようにあります。12節さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった。彼の残虐性がよくあらわれている箇所であります。しかしその旅の途中、ある出来事が起こるのでした。続く34節。ところが、道を進んでいって、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と言う声を聞いた。彼を光が巡り照らすのでした。あえてここで、天からの光と書かれている。この光が、神様からのものであることに他なりません。それまで神様のことを知ろうとせず、かえって神様を信じる者を迫害する存在であったパウロです。やみの中を、自分の信ずるところに従って、盲目的に歩んでいた者でありました。そんなパウロに光が与えられた。すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。これはイエスキリストの誕生を教える、クリスマスによく開かれる箇所でありますが、まさにパウロがそのようにしてまことの光に出会い、まことの光に包まれたひとりであるのです。そのようにして知らされた奥義。人の知恵によるのではない。人の努力によるのではない。ただ、神様からの光によって、はじめて明らかにされ、知ることができるものであるのです。パウロはそのイエスキリストとの出会いを明らかに意識しているのです。ある人は救いの原体験とも言い換えます。キリストに出会った喜びが溢れています。自分で獲得したものではなく、一方的な愛とあわれみによって、私たちはこの御方に出会い、その御腕に抱かれ、名前を呼ばれるのです。

 

 ではそのようにして知らされた奥義とは何だったのか。エペソ書に戻り3:6その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともにひとつのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。さきほど、人の考えによらずに、ただ神様の光によって明らかにされ知らされたものがこの奥義であるとお話ししました。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリ2:9という聖書のことばがありますが、人からは到底出てくるはずのない教えであると言えるでしょう。それは、これまでにパウロが述べてきたことに他なりません。特に2章の後半で言われていたこと、キリストの十字架によって隔ての壁が打ち壊され、神との和解、人との和解が与えられ、神を愛し、人を愛する者と変えられる。神の家族となる。それこそが奥義であるのです。互いに憎しみあうことはなく、自己中心的な生き方は終わり、共同の相続者、ひとつのからだ、ともに約束にあずかる者として、愛し合うことが許されている。それこそが、パウロのつとめの中心であり、この奥義をあなたがたに知らせるために、喜びの知らせを告げるために、キリスト・イエスの囚人となったのだとパウロは言うのであります。この奥義について、これまで語られてきたことですので、改めてお話しすることは省かせていただきます。しかし一点だけ、実はこの奥義は1章でもすでに言われていることであることだけを確認しておきましょう。エペソ人への手紙1:810この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。時がついに満ちて実現しますとあります。周りを見渡すとどうでしょう。いまだにたくさんの争いがあり、多くの血が流されています。まことの光に出会い、包まれ、その温もりを知り奥義を知らされたパウロでありましたが、そのまことの光を知らない闇が依然として世界をおおっています。奥義の実現はいまだ完成への途上にある。しかしその中にあって、すでに私たちは神の家族とされている者であります。この大きな恵みを覚えたいのであります。

 

3.     神の秘義/奥義を確認した上で、福音に仕える者であるとの自覚 

 そして最後に、パウロは再び自身のつとめについて語ります。7節私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。説教題にもさせていただきました、福音に仕える者、それが登場します。冒頭でもお話ししましたように、年始、しばらくゆっくりとこの一年について思いを巡らせる中で、あらためて、私は、そして私たちは、この福音に仕える者、福音に使える教会であり続けたいと言う思いが与えられました。7節ではこの福音とあります。6節、奥義とは「福音によって、キリストにあって」一つとされることである。天にあるもの地にあるものの一切がひとつとなるためにはこの福音がなければならず、それゆえに、すべてのものをキリストにあってひとつとする働きのために、私パウロは福音に仕えると言っているのであります。神の家族を広げるため、温もりを一人きりでいるあの人へと届けるために、福音に仕えているというのです。では、福音とは何でしょうか。

 

 Ⅰコリントでパウロは次のように言っています。15:1− 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じだのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。わたしがあなたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

 

 今朝、もう一度私たちの存在について考えたいと願い備えてまいりました。パウロは言います。私は福音に仕える者とされました。光に照らされ、神の奥義を知らされ、その喜びを知らされた者の一つの応答であります。ここでの「福音に仕える」とは、直接、牧師のようにみことばを語ることだけではありません。今お読みしましたⅠコリントでパウロが言っていることは、福音とはイエスキリストであると言うことであります。特別な言葉はいらない。ただ、イエスキリストが私にしてくださった大きな恵みを、証しする。それこそが、福音に仕える者の生き方であると言えるでしょう。キリストにあって生きる生き方、とも言えるでしょう。

 

 であるならば、3章の冒頭で語られましたキリスト・イエスの囚人ということば。キリスト・イエスから離れずに、堅く結ばれているということは、自由の制限ではなく、主とともにいられることの喜びを教えているのだと言うことに気づきます。さらに、福音であるお方を伝えるための大きな力であると言うことに気づくのであります。キリストと共に生き、キリストを宣べ伝える。このお方を離れては、私たちは語る言葉をもっていません。このお方の他には、私たちが仕えるべき主人はいないのであります。パウロはそのように告白するのです。私たちはどうでしょうか。年の初め、もう一度、私たちがどのような存在であり、どこに使わされているかを覚えたい。福音はグッドニュースと呼ばれます。それは、私の大切なあの人、救いを必要としているあの人にとってのグッドニュース、良い知らせであります。だからこそ私たちは、語り続けるのではないでしょうか。パウロは「あなたがたのために」と繰り返し叫んでいました。何の打算もなく、ただキリストの愛にいかされている者の正直な言葉です。すべての者を一つにしようとされる神様の愛と、それを実現させるイエスキリストと言う福音、私たちはそこに仕える者として、そこだけに仕える者として、新しい週の歩みを始めてまいりましょう。