あなたの靴を脱げ

川口 昌英 牧師

❖聖書の個所  出エジプト記3章1節~12節

❖中心聖句 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの

立っている場所は、聖なる地である。」     出エジプト記3章5節 

 

❖説教の構成                   

◆(序)背景について

①荒野で羊の世話をしていたモーセは、突然、主から思いがけない使命を託されています。羊の世話という牧歌的仕事から、最強の軍隊を持ち、強力な支配体制にあった大国エジプトから、奴隷になっていた同胞イスラエル人を救い出すという困難な使命を果たすよう召されたのです。

 確かに元は、エジプトにおいて殺される定めにあったヘブル(イスラエル人)の男子として生まれながら、家族の守りとエジプト王であったパロの娘のあわれみによって、エジプト王家の一員として育てられ、40才までエジプトにおいて過ごし、「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がある」(使徒の働き7章22節) 人物でした。しかし、それはまだ事件を起こし、危険視され、追われてエジプトから逃げ去る前でした。

②その時から既に40年経っているのです。今は、人々に影響を及ぼすような力は少しも持たない、一介の羊飼いにすぎないのです。又、脱出させよと言われているイスラエル人は、成年の男子だけでも60万人という膨大な数にのぼり、女性、子ども、老齢の人を含めますと、その何倍にもなるのです。そんな膨大な人々をまとめなければならないのです。しかも、その人々は、苦しいと叫びながらも、隷属状態から脱出することを期待していない人々であったのです。冷静に考えるなら、そんな人々を最強の軍事力を誇り、しかも強制労働によって利益を得ていたエジプトから解放、脱出させるなど不可能であったのです。

 それゆえ、7節~10節(朗読)で、主から、悩み、痛み、叫んでいる民たちを救い出し、約束の地に上らせるために、あなたをエジプト王パロのもとに遣わそう、行って主の民を連れ出せと言われても、11節で「私はいったい、何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れださなければならないとは。」と恐れているのは当然なのです。決して謙遜ではなく、心の奥底からそんなことはとうてい出来ないと言っているのです。

 

 本日は、2014年度の最初の礼拝として、そのように人間的に見るならば不可能と思っている者に、主はどのように語りかけ、力を与えてくださったのか、今、信仰生活を送る私たちにとっても大切なことですから、一つひとつ見て参りたいと願っています。

 

◆(本論)主の方法

①今はただの羊飼いにすぎないモーセに、膨大な、しかもまりのない人々を最強の軍隊の国から脱出させるという途方もない計画の中心につかせるにあたって、主は人間的方法を取るように言われていません。エジプトの勇猛果敢な、訓練された多くの戦車隊に対抗できるように、あなたも戦車隊を育成せよと言っていません。これは注目すべきことです。

 

 そうではなく、この大事業を託すにあたって主が用いられたのは、この世の方法ではなく、神の方法でした。5節「神は仰せられた。『ここに近づいてはならない。あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。』」 6節a「また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』」 12節「神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。』」難事業に召されるにあたっての主の方法は、これらのみことばを伝えることでした。しかし、これこそ、困難に思えることを託す時の神の方法です。一つづつ見て行きます。

 

②第一に、5節、近づいたモーセに、ここに近づいてはならない、あなたの靴を脱げ、ここは聖なる地であると宣言しています。(この意味を考えるにあたって参考となる個所があります。ヨシュア記5章13節~15節、戦いに備えて緊張し、人間的な方策でいっぱいになっていたヨシュアに対して、主の軍の将が同じようなことを言っています。)

 聖なる地であるから靴を脱ぎなさいとは、あなたは臨在を覚えなさい、召されて主のみもとにいることを知りなさい、そして自分の殻の中にとじこもるのではなく、主を信頼せよと言うのです。モーセに全てを創造し、治めるご自身の存在を示し、この召命はみこころによるものであると明らかにしています。

 

③続いて明らかにされたのは6節です。考え深い人たちの頭の中にいる方ではなく、思想の神、思索の神ではなく、実際にアブラハム、イサク、ヤコブの人生を導き、支え、励ました生ける神である、ありのままの生活のうちに働かれ、人生を確かに導いてくださる方という意味です。神は、イスラエルの父祖たちの生涯を導いたように、あなたやあなたの民の人生をも導く生ける神であると示されたのです。(一つの例として創世記22章があります。アブラハムに対して一人子イサクをささげるように命じた出来事です。ご承知のように理不尽であり、一切の希望を絶つような仰せです。しかし、理由があったのです。アブラハムのイサクへの愛をただし、真の使命に立たせ、神に信頼するように示すためであったのです。ご利益の神ではありません。全てをご覧になっておられ、そのためには厳しいことを伝え、そして最も大切なところにあって生きるように導かれる神なのです。)

 

④しかし、あまりの困難のゆえに、なお恐れて固く引き下がっているモーセに、主が終わりに示されたのは主がともにおられるという約束でした。(12節) 人の力の源はここにあります。私は、このことばから使徒パウロのことばを思い起こしました。(Ⅱコリント4章6~7節) 私たち自身は神を信じてもなおもろく、また粗末な土の器です。しかし、土の器でも神の愛をうちに持つときに測り知れない力が与えられるのです。反対に、人間的にどれだけ恵まれていても、主がおられず、内心が不安であるなら、力を感じることができないのです。主は、固辞するモーセに、最も豊かな力を約束され、そしてモーセは遂にそれによってこの召命に応える決心が与えられたのです。

 

◆(終わりに)真の力は主にある

 確かに、モーセは主の命に従い、立ち上がった後、さまざまな苦難に陥っています。しかし、生涯の終わりまで、その召しから離れることはありませんでした。人間的に優れていたこともあるでしょうが、何よりも彼を支えていたのは、主から大切な使命が与えられている、主がともにおられるという約束でした。生涯、聖なるご臨在を覚えて、自分の経験、知識に頼らず、全てを主に委ね、自分を深く愛し、召してくださった主から力を頂いていたのです。

 主は私たちの全てをご存知の上で救い、主の民、証し者として歩むことを期待しているのです。召されていることを大切にし、人の力はこの世の方法ではなく、神のことばにあることを覚えてこの新しい年、神にあって歩みたいものです。教会や他の信仰者の批判点をあげようとするならいくらでもあげることができます。ですからそんなことで大切な主との繋がりをなくさないで欲しいのです。信仰生活は結局のところ、一回限りの人生を主のもとにあって歩むか、世の人々と同じように歩むかなのです。人の目や声ではなく、自分の人生を大切にしようではありませんか。