私たちの隣人になられた方

川口昌英 牧師

聖書個所 ルカの福音書1025~37

中心聖句 「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」

                            ピリピ人への手紙26~8節                     

説教の構成

◆()このところを取り上げる理由

今年のクリスマス礼拝においては、先ほど読んでいただいた個所から救い主としてこの世に来られた主と一人ひとりの関係について教えられたいと願っています。

 大事なクリスマス礼拝において、何故、このところなのかですが、ここには、クリスマスの時によく引用される、「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり……(マタイ2028)、「わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔改めさせるために来たのです。」(ルカ532) 、さらに「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。」(ヨハネ638) などの意味がより具体的に言われているからです。

 

この個所は、良きサマリヤ人の譬えとして知られているところです。主イエスは、律法学者から(律法全体の要約の一つである)「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われている隣人とは誰かという質問に対して、その答えとともに、救い主としてこの世に来られたご自身の姿をはっきり示しているのです。では見て行きます。

 

◆(本論)主が最も伝えようとされていること

エルサレムからエリコにくだるという強盗が出ることで良く知られている道で、強盗に襲われて瀕死の状態で倒れていた人を見ながら (倒れていた人は譬えの中心であるサマリヤ人と歴史的に対立していたイスラエル人だと思われます)、反対側を通りすぎて行った祭司、またレビ人は、特別に非情、或は薄情な人々ではありません。彼らがとった倒れている人を見て反対側を通りすぎたという行動は、人里離れた辺鄙な、危険な場所であるという状況を考えると、まさに限界的状況であるからです。

 私は、この譬えは、主が神殿で人々を代表して神に仕えている祭司や同じように神殿のさまざまな働きをしているレビ人の冷酷な行動を非難しているのではなく、祭司やレビ人に代表される、律法を中心とする旧約、古い約束の限界を示しているように思います。というのは、「隣人をあなた自身のように愛せよ」という律法に照らし合わせても、彼らの行動は、このような状況にある場合は非難されなかったと思われます。すなわち、主は祭司やレビ人の冷酷さや主に質問した律法学者たちのご都合主義を非難するために言っているのではなく、律法自体はすばらしいものであっても、律法を行う人自身が自分中心の考え、(そしてそれは罪の状態そのものですが) から離れることができないゆえに、人として一番大切なことを行うことができない、限界があることを示し、だからこそ、父なる神は、旧約に代わって、人を救うためにここに出てくるサマリヤ人のような、新しい約束を与えられたというのです。

 このように、この個所は、隣人を愛する真の意味を明らかにするとともに、神が旧約に代わって新約を与えられたことを示しているとても重要な個所ということができるのです。

 

さて、祭司やレビ人が過ぎて行った後、そこに通りかかったサマリヤ人は実にすばらしい存在です。彼は、イスラエル人と歴史的な由来があるサマリヤ人でしたが、そんな確執に一切とらわれず、ただ瀕死の状態にいる人の苦しみだけを見て、はらわたがちぎれるほど同情し、近寄って、(何とか助けようとして)、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、包帯をし、(出来る限りの手当をして)、自分が乗っていた家畜に乗せて(非常に大切にして)、宿屋に連れて行き、介抱してやり、次の日、二デナリ、(これは破格の費用を払い、)を宿屋の主人に渡して「介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」(傷を負った本人ではなく、自分が最後まで責任を持つ)と言っているのです。

   このサマリヤ人にしても先の祭司やレビ人と同じく、身の危険があるのです。傷ついている人を伴っているのですから一層、危ないと思われるのです。しかし、このサマリヤ人は、律法を良く知り、律法に生きていた祭司やレビ人の限界を容易に超えているのです。彼は、律法の意味から入っていないのです。自分中心の考えから入っていないのです。そうではなく、ただ倒れている人を中心にして行動をしているのです。明らかに、旧約、律法を超えた行動です。すなわち、主は真に隣人を愛することを示したこの良きサマリヤ人を通して、救い主として来られたご自身によって、旧約に代わる救いの御技が実現していることを示しておられるのです。このところは、単なる律法解釈論争ではありません。旧約、律法中心に代わる新約が実現したと伝えているところです。

 

聖書は、すべての人は、強盗に襲われて倒れていた人のように、罪と罪過の中に死んでいると言います。(エペソ21) 確かに、肉体的に生きており、又自分の願うように生きているかも知れませんが、本当の生きる目的が分からず、生き方にも確信が持てず、又廻りの人々を素直に受け入れ、愛することができない、更に自分のおかして来た罪の行いに縛られ、深い死の恐怖を抱いているからです。「義人はいない、一人もいない、すべての人は罪をおかしたので神からの栄誉を受けることが出来」ないと言われている通りです。(ローマ3)

   そういう者たちに対し、どう生きるべきか、また何をなすべきか教えられますが、弱さや罪深さのゆえに実行できず、益々不安の中に留まざるを得ないのです。誰もそんなことを表面には出さず、そして多くの場合、別の何かによって心が満たされている時にはその不安も忘れることが多いのですが、認めようと認めまいと、すべての人は、罪の支配の中に生きているのです。

 父なる神はそんな罪と死の支配の中にいる者のために、ご自分の愛するひとり子を罪と死よりの救い主としてお送りくださいました。良きサマリヤ人が近づいて死を待つしかなかった旅人を助け、介抱し、これからの道を開いてくれたように、人となられた御子は、信ずる者に新しい人生を与えてくださったのです。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ1010b) とある通りです。そして、その主に全てを委ねるときに「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント517) と言われていることが実現するのです。

 

◆(終わりに) あなたはクリスマスをどのように迎えますか

 多くの人々が、祭司やレビ人のように正しいことを教え、指示してくれる人はいるが、苦しい時、共にいて助けてくれる人はいないと思っています。そして、生きる喜びや死に対する希望を持つことなどできないとあきらめています。

 しかし、倒れて死を待つだけの者に良きサマリヤ人が来て、完全な助けを与えてくれたように、全ての人のために救い主がお生まれになったのです。主は、倒れた旅人の真の隣人となったサマリヤ人のように、私たちを罪と死の支配の中から救い、インマヌエル、(神は私たちとともにおられる)新しい人生を与えるために誕生されたのです。(マタイ123) 私たちは、助けられた人のようにただ全てをこのお方に委ねるだけで良いのです。そこから新しい人生が始まるのです。皆さん「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じ」(ヘブル138)です。