満ち満ちた豊かさを持つ方

説教 川口昌英牧師

❖聖書個所  ヨハネの福音書1章1節~18節

❖中心聖句 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。                     ヨハネの福音書 1章16節

❖説教の構成

◆(序)御子の誕生についてのヨハネの福音書の特徴

①マタイやルカの福音書が、御子の誕生を詳細に記すのに対し、ヨハネの福音書は、出来事そのものについて記していません。別の表現で記しています。

 ❶「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(9節)

 ❷「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(14節) 

 ❸「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(18節) など。

②救い主の誕生に関して、登場人物や場面や起こったことではなく、先にあげたような記述をしているのは、次のような理由が考えられます。ヨハネがこの福音書を書いたのは、主イエスの昇天後、約50年以上も経った後であり、主の誕生の経緯については既に教会の中に定着しており、改めて書く必要がなかったものと思われます。しかし、一方、主イエスについて教会の中に誤った教えが入りこんで来ていたことから、主イエスはどのような方であり、何のために来られたのかをより深く明瞭に伝える必要があったのです。(20章31節) そのため、主イエスはどのような方であるのか、私たちに何をなしてくださったかをあらためて伝えるために、先にあげたような特別の言い方をしていると思われます。では、中身を見て参ります。

 

◆(本論)御子は、ことばであり、光である

①まず、主はことばであったと言います。新約聖書が書かれた元々の言語、ギリシャ語ではロゴスです。そして、この方について「初めに、ことばがあった。」と、造られた方ではなく、元々、存在する方であったと言い、続いて「ことばは、神とともにあった。」と、この方は、創造主とともに、親しい交わりのうちにおられた方と言い、そして「ことばは神であった。」と、この方は、神ご自身であったと強調します。更に、2節~3節で、この方は初めから神とともにおられ、すべてのものをお造りになった神であると明らかにしています。

 この個所は、気づいている方も多いと思いますが、旧約聖書、創世記の冒頭「初めに、神が天と地を創造した。」(1章1節)に対応する記述です。父なる神とともに、天地万物を創造され、御心のうちに治めておられる神ご自身である御子が救いの御技を成就するために人間社会に来られたことを強調しているのです。

 ヨハネが主をことば(ロゴス)と呼んでいることについて、さまざまな解釈がなされています。「父なる神とともにおられる知恵であり、力であり、豊かな愛を持つ方」を表しているとか、「父なる神とともに創造の御技を行い、宇宙全体を支配しておられる方」を表しているとか、さらに「全て世にあるいのちあるものの基であり、存在の目的である方」を表している等です。いづれもこの世のすべてをそれぞれ目的を持つものとしてお造りになり、意味あるものとなし、治めておられる至上の存在だということです。それがことば、ロゴスという意味です。ヨハネは、まず主をロゴスと呼ぶことによって、主のご降誕は、人の想像を超えた重大な出来事であると伝えているのです。誰がこの地上の全てのものをお造りになり (その中には人も含む)、深遠な知恵をもって治めておられる方自身が、罪深い生き方をしている人を救うために、みずから人のかたちをとってこの地上に来られると想像できるでしょうか。

どれほど真理を追求をする哲学者でも考えつかないことです。いや、むしろ人の歴史や現状を深く知る者は却ってそんな奇跡は信じられないのです。このように人間の知恵では考えられないことを、神はなしてくださったと、お生まれになった方はロゴスであると言うことによって伝えているのです。そして、当時、教会の中に入り込んでいた、キリストは神ではなく、ただの人であったとか、反対に神であったが、完全に人となられたのではなく、人のかたちをとったように見えただけだ、十字架の死と復活は抜け殻にすぎなかった、それゆえ、救われるためにはその方を信ずるだけでは足りず、特別の知識を得ることが必要であるという誤った教えに惑わされないようにしなさいと言うのです。

 真のロゴスである方が、人としてこの地上にお生まれになり、人としての生涯を送られ、最後には人の罪のために、十字架の死を受けて三日目に甦られた、そして、この方によって人間の真の問題である罪の贖いがなされた、そのめぐみとまことに満ちておられた方が生まれ、人の社会の中に来られた(14節) 意味を人はしっかり受けとめなければならないと言うのです。

 

②続いて、著者ヨハネは、主は光、まことの光であると言います。そして、4~5節において、そのまことの光は人を照らし、この方にあるいのちと深く結びついていると言います。関連して、人々から特別の人物と思われたバプテスマのヨハネを取り上げ、そのヨハネ自身は、人を照らし、いのちをもたらす光ではなく、光について証しするために来た人であると言います。(7節~8節) バプテスマのヨハネをとりあげているのは、信仰に影響を与えた人物であるからです。彼自身は、まことの光ではなかった、ただ、光について証しする「燃えて輝くともしび」であったと言うのです。厳しく人々の罪を指摘し、悔い改めを迫り、多くの人々の心を神に向けさせたが、人々を闇の中から救い出し、いのちを与える光ではなかったと言います。

 それに対し、主は、人々の暗闇を照らし、(暗闇を消滅させ)、生きる道を示し、暖かさをもたらし、喜び、平安、希望を与えたまことの光であったと言うのです。公生涯を開始し、神の国の到来、福音を宣べ伝え始めた場所について「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」(マタイ4章15節~16節) と言われています。暗やみは死の地、陰のことです。このみことばは、当時、周辺国と国境を接し、異邦人との交流が盛んに行われていましたが、さまざまな偶像が入り込み、霊的には全く希望がない地と思われていたガリラヤから主が御国の到来を宣べ伝え始めたというところです。そんなガリラヤから、主が神の時が来たと伝え始めたのは偶然ではありません。暗く、寒い、よごれた家畜小屋の中でお生まれくださったことと同じように、本当に真の希望を失っていた人々の暗やみを追い出し、照らし、生きる道を示すためであったと示しているからです。

 

◆(終わりに)主と私たち

 大きな罪をおかし、死刑判決を受け、死刑を待つだけの人がいました。しかし、それには背景があり、同情の余地があることが分かり、多くの人々から嘆願状が寄せられ、調査をした大統領から遂に恩赦状が出たのです。しかし、その恩赦状を届ける役割の人がそれを忘れてしまったのです。気づいて慌てて届けると、少し前に死刑になっていたということでした。

 ことばであり、光である方が来られて人の想像をはるかに超える恵みを示し、すべての暗やみを追い出し、生きる希望を与えられたのです。根本、又中心である罪に対して、完全な赦しと神のもとに迎えられる新しいいのち、いわば確かな恩赦状が発せられているのです。しかし、世の多くの人々はその事実を知りません。私たち自身も誰かによって、この恵みを知ることができたのです。それを自分のポケットにしまっているのではないでしょうか。恩赦状を届けましょう。