私たちの間に住まわれる神

131208 礼拝説教【説教】

■聖書:エペソ人への手紙2:19-22、ヨハネの福音書1:14

■説教題:『私たちの間に住まわれる神』                  ■説教者:山口伝道師

■中心聖句:ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

ヨハネの福音書1:14

 

1.     はじめに …アドベント、ヨハネ1:14、平和の君と呼ばれるお方が来られたことの意味 

 クリスマスクランツのろうそくも二本目がともり、アドベントも第二週となりました。アドベントとはラテン語で、直訳するならば「到来」を意味します。さらにこの期間を日本語では待降節、イエス様が人として世に来られること、イエス様の到来を待ち望むという期間であります。カトリック教会が主となって「教会暦」というものが造られています。一年を、例えば待降節、降誕節、受難節、復活節のように分けていくものです。その始まりが、実はこの降誕節、この時期であります。教会はキリストの来られるのを待ち望むこの期間を一年の初めとしている、と言えるのです。このことを考えると、このアドベント、待降節という時期がいかに教会において重要な意味をもっているのか、ということを思わされます。    

 

 本日も続けてエペソ人への手紙の続きを読んでいきます。が、特にこのアドベント待降節の時期に語られる言葉に耳を傾けていきたいと願っております。これまで、特にエペソ人への手紙2:11からを見ていく中で、イエス様の十字架によって隔ての壁が壊された、和解が与えられ、平和が与えられたということを見てきました。孤独の中、だれに頼ることもできない冷たい閉塞感の中、イエス様が平和を与えてくださった。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる」(イザヤ9:6)と預言者イザヤの時代、イエス様誕生の700年も前に約束されていたことが、まさにここで言い表されているのでした。神との壁、人との壁を打ち壊され、平和をもたらされるお方。そのお方こそ、私たちがこの時期、心を一つにして待ち望むイエス様なのです。そして平和の君であるイエス様により壁が取り除かれ光りが与えられ、平和を与えられてイエス様を信じ受け入れた全ての人は、さきほどの2:19「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」神の家族であると呼ばれる。それが前回までの箇所であります。神の子であるイエス様を受け入れることで、私たちもまた神の子とされ、同じ愛を注がれる子として、家族として招かれているのです。かつての孤独は、もはやない。もう寂しい思いをしなくてもいいのです。聖書の中では何度も食事の場面が登場し、それがとても近い関係、温かい交わりを表わしていることを教えます。神の家族とされた、同じ食卓を囲むことができるほどに、私たちは父なる神に近づくことができる、とさえ言われているのです。それが平和の君、イエス様がもたらされたものなのでした。

 

 

 

1.     エペソの教会 …その土台、その礎石について(v20) 

 パウロはこの「あなたがたは神の家族である」ということで終わらせるのではなく、さらに言葉を続けています。20節、あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この個所は19節からの続きで22節までが一つの文章として、キリストによる平和を伝える2章の終わりに置かれているのです。イエス様の十字架によって誕生した「神の家族」が土台、礎石の上に建てられた建築物として言い換えられているのです。神の家族という素晴らしい教会の姿の後に、なぜこのような一見無機質な建物のたとえが用いられているのでしょうか。多くの神学者は、そこにある特徴、「神の家族」という表現では表わしきれない教会の側面が強調されていると見ています。では、パウロが強調しようとしていることとはなにか。見ていきましょう。

 

 まず、建物の基礎となる土台について語られています。「使徒と預言者」という「土台」。使徒とはイエスに遣わされた復活の主の証言者(使徒1:22)であり、預言者とは神に遣わされた神の言葉の伝達者(申命18:18です。彼らの働きに共通していることは、メッセンジャーとしての彼らが届けるもの、伝えるものであると言えます。預言者が伝える「神のことば」。この時期にこのことばはことさらに強く響きます。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」ヨハネの福音書、冒頭部分であります。ことばは神であった。そして本日の聖書箇所ともさせていただきました、14節ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。このことばなるお方こそが、イエスキリストです。使徒たちが証言し、預言者たちが伝え続けたお方であり、私たちがその到来を待ち望んでいるお方であります。だからこそ、エペソ書でパウロは続けて告白する。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。大きく揺れ動く今、闇がより一層の激しさをもってあたりを取り囲もうとしている今だからこそ、もう一度、私自身を含めて教会全体で確認し、しっかりと刻み付けたい御言葉であります。私はどこに立っているのか。私たちはどこに立っていくのか。使徒の一人、ペテロは、あなたはわたしをだれだと言いますかというイエス様の声に応えました。「あなたは生ける神の御子、キリストです」そして主は言われる。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」。イエス様が教会を建てると言われたのは、イエス様だけが私の主であると告白するその信仰告白の上にでした。それこそが、使徒たちや預言者のメッセージであり、中心におられるのはイエス様なのでした。礎石と言うことばが登場します。文字だけを見ますと、礎、つまりまさに土台の石を表わしています。と同時に、ある神学者はこれを「隅のかしら石」これもまた聖書にあるイエス様を言い表したことばですが、これと解釈し、かしら石。すなわち、建物の完成の際、最も美しく飾る完成のしるしとしての石であると教えています。どちらで読むこともできるでしょう。教会の土台はイエス様であり、教会の完成はイエス様である。目に見える教会は、概観がりっぱだからとか、何人が集まっているからと言って評価されることが多いです。しかし、そうではない。まことの教会を判断するのは、その教会が使徒と預言者、すなわち神の言葉の土台に立ち、礎石がイエスキリストであるかどうか。さらにかしら石としてキリストを掲げているのかどうか。そのイエスキリストと言う一点にかかってくるのです。だからこそ、教会の一部である私たちもまた、それぞれの土台を確認していく必要がある、キリストを掲げていく必要があると言えるでしょう。

 

2.     建物の一致と成長 …教会の成長とは何か。「組み合わされた建物」「ともに建てられ」と言われていること(v21,22) 

 さて、そのような建物として教会、神の家族が言い表されています。パウロは続けて語ります。21,22節この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたも共に建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。この箇所から二つのことを学びたいと思います。一つは、建物と言われているこの教会は、部分部分がキリストにあって組み合わされ、共に建てられていくということ。もう一つは、それは成長し、主にある聖なる宮、神の御住まいとなる、という点であります。

 

 まず、一点目、神の家族を建物と言い換えたパウロは、あなたがたは組み合わされ、共に建てられていくと表現しています。組み合わされる、共に建てられる。いずれも珍しいことばが用いられています。イエスキリストという土台にそれぞれが堅く立つとき、それぞれ同士の結びつきも、「この方にあって」強くされていきます。ある説教者は次のように言っています。「一つ一つの石の大きさは皆違うが、しかし主は念入りに、私たちを、生ける主の宮を建て上げるために必要なものとして選び出してくださいました。その違った者たちが、主に依って選び出され、教会に加えられたということは、その中の一人でもかけた時、教会は崩れてしまうということにもなりかねないのです。」それほどまでに、教会の一人ひとりの存在がいかに大きいか、ということを表わしている、大切な指摘だと思います。それをつなげているのは、土台であり、組み合わせてくださる設計者としてのイエス様です。一つ一つの石は、大きさも違うし形もそれぞれです。飛び出た石もあれば、欠けがある石だってある。しかし、主は、全てを同じ形、同じ大きさの石を組み合わせるのではなく、そのままの形を積み上げていかれる。それが、組み合わされる、と言われていることの意味です。その人の強さはもちろん、弱い部分も大切で必要でなくてはならない一部として用いて、教会を建て上げようとしてくださるのです。もちろん時に石は整えられる必要があるでしょう。けれども、主はその石その石を大切にし、ふさわしい所へと運び、組み合わせてくださる。これも、二章全体のテーマであります「平和」が与えられていなければ、決して組み合わされることのないものであります。

 

3.     「神の御住まいとなる」こと(v22) 

 そしてそのように組み合わせられ、共に建てられていく建物は、成長し、聖なる宮、神の御住まいとなります。この箇所から覚えたい二点目です。建物が成長する、というのは面白い表現ですが、パウロはこの建物が単なる無機質なものではない、いのちある建物であるということを示すために「成長」と言っているのだと考えられます。組み合わされて、ともに集められて、終わりではない。キリストの土台の上に立ち上げられている私たちは、成長していくのであります。なぜなら、私たちはイエス様の十字架の死によっていのちが与えられた、一つのいのちを共有する建物であるからです。そしてそれは「神の御住まいとなる」。注意したいことは、ここで「なる」と言われていることは、今はそうではないと言っているのではないこと、その途上にあるということです。日本語に表わしづらいのですが、なっている、なり続けている。完成はまだであるけれども、でも確かに、そのような存在である、神の御住まいである、というのです。

 

 成長し、「聖なる宮」になると言われていますが、これは聖所の中でも最も奥に位置しています「至聖所」を表わすことばです。神がおられる所。すなわち、「神の御住まい」であります。神聖な場所として、限られた人だけが、限られた時にしかはいることのできなかった場所であります。しかしイエス様の十字架の時、その至聖所を、神との関係を限定していた幕は裂かれたのでした。神との隔ての壁はなくなり、神の家族として温かい関係が与えられていると伝えました。しかしそれで終わるのではなく、さらに踏み込んで、神はいつも私たちとともにおられる、私たちのうちに住んでいてくださる。パウロはそのように神と人との平和がどんなに素晴らしいものであるかを、この二章の終わりで語り、章を閉じているのであります。これこそが、キリストの土台の上に建て上げられていく教会の最大の特徴であり、最大の特権であると言えるでしょう。

 

 神が私たちのうちに住んでくださったということ。エペソ書2章ではイエス様の十字架による神との和解によって、この特権が与えられたのだとお話ししてきました。しかし、その素晴らしいわざは、すでに始まっていたのです。クリスマス、十字架にかかるため、罪に死んでいた私たちを助けるため、壁の中でひとり滅びへと向かっていた私たちを救うために生まれてくださったイエス様の誕生に始まっていた。ヨハネの福音書1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。神であったことばが、人となって、私たちの間に住まわれた。神の御姿を捨てられないとは考えず、弱い人の姿をもって、平和の君として世に来られた。神に愛されていることを知るように、神を愛することを知るように、さらに人を愛し、愛されていることを知るように、隔ての壁を打ちこわしてくださった。その土台の上に建てられている教会は、イエスキリストに始まり、イエスキリストに完成されるものであるのです。私たちはその器として、神の御住まいとしての歩みを続けていきたいのです。神が内に住んでいてくださる。ヨハネは、黙示録2134において、は次のように語ります。お開きにならなくても結構です。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聴いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 

ここには平安があり、ここにこそ希望があるのです。

 

4.     まとめ …再びヨハネ1:14、私たちの間に住まわれる神 

 イエス様の時代の「暗やみ」 このたった一人のみどりごのために近辺の二歳以下の子が殺されると言う、当時と言えども異常と言わざるを得ない混乱、不安、闇の時代です。今、ますます深くなっていく、私たちを取り巻く「暗やみ」。多くの人は自ら命を絶つこの時代。だれに頼ることもできない閉塞感の中で生きている人は非常に多くおられます。家族の温かい絆は破壊され、痛ましい事件が世に満ちている。こんなことが現実にあるのかと目を背けたくなるような、暗い時代であります。さらに、国も大きな混乱の局面を迎えています。あたかもかつての過ちをたどるかのような、見通しの悪い時代に私たちはたたされています。ますます真理が遠ざかり、見えなくなっていく時代にあって、私たちは何を頼りに生きていくのでしょうか。

 

しかし、そんな暗やみの中だからこそ、もう一度覚えたいのです。その中に、罪と悪がうごめく暗やみの中に、イエス様が来て下ったということ。ことばとして私たちを導き、ひかりとして私たちの道を照らし、いのちとして私たちを生かしてくださるお方が、内に住んでいてくださるということ。神の御住まいとして、私たちの間に住まわれる主に信頼して、希望を持って、したがっていく。私たちにはこの生き方が与えられているのです。

 

教会は、人間の知恵で建て上げられるものではない。神の言葉、イエスは主であるとの信仰告白の上に立つものである。そして成長していく。イエスをかしら石として、神の栄光を現す器として。そこには主がともにおられる。光りは闇に打ち勝たなかった。勝利が約束されているのです。

 

この内に住まわれる主に信頼し、御言葉の土台に堅く立って、この揺れ動く時代の中を、力強く歩んでいきましょう。お祈りします。