インマヌエルの恵み

川口昌英 牧師

聖書個所 ヘブル人への手紙11~14

中心聖句 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

                        ヘブル人への手紙11~2a 

説教の構成

◆()全体を見る理由

 今週から、主の御降誕を特別に深く想うアド・ベント(待降節) に入っています。クリスチャンにとって、直接に神の愛を感じる、又最も信仰を伝えやすい時節です。

 待降節第一週の本日は、福音書全体から御子の誕生に関する一連の出来事をまとめて見ることにします。御子の誕生に関する一つひとつの現象は、それぞれ重要な意味を持っていますが、全体を見て、把握することにより、その出来事の意味がより鮮明になるように思うからです。

◆(本論)一連の出来事

聖書は、救済史の書です。天地万物を創造され、人をご自身のかたちとして創造された神が、自ら神と同じようになりたいと願い、神に背き、罪と死に支配されるようになった人(創世記1~3) になされた救いの御技の書です。

 神に背いた時、既に神の愛は示されていますが、(創世記321)、具体的には全ての人の中から信仰の人、アブラハムを選び、祝福の契約を結び、「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される。」と使命を託されたことから始まっています。(創世記12) そして、その子孫であるイスラエルに対して、聖なる国民、宝の民、祭司の王国とする契約を結び(出エジプト19)、十戒を中心とする神の民の生き方を示す律法を与えられたのです。(出エジプト20章以後)

   こうして、深い憐れみによって、罪を贖い、死の支配から救うために、主は御心を示されたのですが、人の側はイスラエルの歴史から分かるように、不信を繰り返したのです。そのため、見捨てられても仕方がない状況でしたが、しかし、主は変わりなく人に対する愛を抱き続け、救い主を送られる約束を預言者を通して時々に告げ、そして遂に御心の時に、最後の御技、ご自分の愛するひとり子を人のかたちを持つ者として、処女より生まれさせ、罪を完全に贖う方、救い主として送りくださったのです。本日の中心の聖書個所であるヘブル書1章にある通りです。(1-3) 

クリスマスの一連の出来事は以下の通りです。まず旧約と新約の橋渡しをするバプテスマのヨハネの誕生が(救い主の母となるマリヤの親族であるエリサベツの夫)、ザカリヤに告げられることから始まっています。夫婦とも年をとっており、又長年、子どもが与えられませんでしたから信じられずにいましたが、告げられた通り、エリサベツが実際に救い主の先触れの役割を果たすことになる子、後のバプテスマのヨハネをみごもったのです。(ルカ15~23)

 その出来事があってからしばらくして、ガリラヤのナザレという片田舎にすんでいたマリヤという処女に御使いのガブリエルが現れ、「あなたはみごもって男を生みます。名をイエスとつけなさい。」と告げたのです。マリヤは、男の人を知らない私にどうしてそんなことがあろうかと非常に恐れを感じ、困惑しています。しかし、御使いから、人間常識ではあり得ないそのことに込められている意味を知らされた時、彼女は「ほんとうに、私は、主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」とすべてを受け入れたのです。そして、先にみごもっていた親類のエリサベツと会い、主をあがめる有名な賛歌を歌っています。(ルカ124~55)

 マリヤの方は、信仰を持って受け入れたものの、元々ダビデの家系出身の、婚約者であるヨセフは悩み苦しんでいました。まだ二人が一緒にならないうちに、いいなづけであり、律法上は妻として扱われるマリヤがみごもったと知らされたのです。十戒の一つで禁じられている姦淫という大きな罪をおかしたに違いない、しかし、マリヤを人々のさらし者にしたくなかったので、

ひっそりといいなづけの関係を解消し、いっさい関係を断とうと思ったのです。そんな彼に主の使いが夢の中で「ダビデの子ヨセフ、恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎にやどっているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と語られ、ヨセフもそのことばを信じ、マリヤを迎え入れたのです。(マタイ118~25)

 こうして、ヨセフがマリヤを迎え入れ、数ヶ月経った頃、当時、ユダを支配していたローマ皇帝からそれぞれ先祖の出身の地に行き、そこで住民登録をせよという命令が出ました。既にマリヤの出産の時期が近づいていましたが、登録をするために二人はガリラヤから遠くベツレヘムまで出かけたのです。そして、そのところでマリヤは月が満ちて、ようやく備えられた、寒く暗い、よごれた家畜小屋で、男子の初子を産み、布にくるんで冷たい飼い葉桶に寝かせたのです。栄光に満ちた神の御子が、最も誕生にふさわしくない場所においてお生まれになったのです。

 その神の御わざが実現した頃、野原で夜通し、羊の番をしていました羊飼いたちに~この人々は社会から信用されていない人々でした~突然、御使いが現れ、救い主誕生を告げ知らせ、又多くの天の軍勢も救い主誕生を讃美したのです。驚き、恐れた羊飼いたちでしたが、やがて落ち着きを取り戻し、さあ、ベツレヘムに行ってこの出来事を見てこようと出かけ、マリヤとヨセフ、そして飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけ、自分たちに起こったことを人々に告げ、神を讃美したのです。(ルカ21~20)

   ベツレヘムでこのような起こっていた頃、少し離れたエルサレムに、はるか東方、ユダの先祖たちが捕囚されていた地から、救い主誕生の星を見たのでその救い主をあがめるために来たという珍しい訪問者たち、博士たちが来ていました。彼らはヘロデ王を訪れ、その地はベツレヘムと教えられ、出かけ、やがて星に先導され、遂に幼子と会うことができ、そして大喜びをし、ひれ伏して拝み、大切に携えて来た贈り物をしたのです。(一方、博士たちからユダヤ人の王が誕生すると言われたヘロデは、不安に襲われ、後にその可能性のある二才以下の男の子をすべて殺させたのです。人の根本の問題である罪より、完全に、永遠に救う方がお生まれになったというめぐみの御わざが実現したのに、残虐このうえもない悲惨な事件が起きたのです。)(マタイ1~23)

   想像もしていなかった人々の訪問を受けたヨセフとマリヤは、律法に定められている清めの期間(40日間)が終わったので、幼子を主にささげるためにエルサレムの神殿に行きました。そこは広く、両替する人々やいけにえを売買する人々、礼拝者が大勢行き交う場所でした。律法の定める小さないけにえを購入したヨセフとマリヤは、全てを思い起こしながら幼子をささげようとしていました。その時、思いがけなく二人の人から声をかけられたのです。年老いたシメオンとアンナでした。この二人は神を恐れていない世にあって、切実に主を求め、救い主を見るまでは決して死なないという約束を与えられていた人々でした。この二人から幼子がどのような存在なのか、どのような生涯を送るのか、はっきりと知らされたのです。母マリヤも父ヨセフもこれらのことばを静かに深く受けとめました。(ルカ222~38) 以上、クリスマスに関する一連の流れです。

 

◆(終わりに)全体を通してより鮮明になったこと

 全体を見て改めて感じたことがあります。人の根本問題である罪を贖う方が世に来られたという歴史の大転換がなされたのですが、出てくるのは名もない人々であり、起きているのはひっそりとした片隅であることです。決してあの王の命令のように力を持って世界中にふれ回されたのではないのです。これが意味するものは小さくない。このうえもない真実な神の愛が示された出来事ですが、聞く耳のある人は聞きなさい、狭き門から入りなさいということを示しているからです。何故なら、主が与えられた救いは罪を知り、その贖いを切に求める人に与えられるからです。

騒がしいクリスマスに惑わされず、感謝と深い喜びをもって真のクリスマスを迎えましょう。