主にある喜びを持って

川口昌英 牧師

聖書個所 ピリピ人への手紙44~7

中心聖句 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」 44節               

説教の構成

◆()ピリピ書概説

   ピリピ書には、 新約聖書に収められているパウロの他の書簡のような、その教会が大きな問題を抱えて混乱していたとか、重要な教理を巡って動揺していたというようなことはありません。

 確かに、「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができることができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、またどんなことがあっても、反対者たちに驚かされることないと。(ピリピ127~28a)や他の個所から推察できるように、一致の面で弱い面があったことを知りえますが、他の書簡に見られるような大きな混乱、動揺はなかったのです。

  では何のためにこの手紙が書いたのか。異邦人伝道をよく理解し、特別に支援してくれていた親しいピリピの人々に感謝を表すとともに、これからも福音の信仰のためにともに奮闘するよう深く一致し、そのために、互いに主にある喜びを大切にして欲しいと書いたのです。

 主にある喜びを大切にして欲しいというパウロの思いは、僅か4章しかないこの手紙の中で、随所で喜びについて触れていることや、この手紙が別名、喜びの手紙と呼ばれていることから分かります。

◆(本論)喜びの理由

拘束され、裁判を待つ身でありながら、なぜ喜んでいますとか、又ピリピの人々に喜んでいなさいと言っているのでしょうか。それは苦難を恐れないほどの、切に求めていた人生の一番の問題が解決されていたからです。

 34~6(朗読)で語っているように、彼は、選民イスラエルの中でも非常に恵まれた存在でした。生まれ育ちの面においても、又神に対する姿勢、志の面においても申し分がない人物でした。更に、能力、賜物においても、ガラテヤ人への手紙において、以前の自分について「また私は、自分の同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」(113)と語っているように、自他ともに、将来ユダヤの宗教界において指導的立場となることを目されていた人物でした。

 このように、さまざまな面で恵まれていましたが、しかし、パウロのうちに喜びはありませんでした。むしろ反対でした。切に求めていることが与えられなかったからです。その確信がどうしても与えられないので本当に苦悩し、神を軽んじていると思われたクリスチャンたちを迫害したり、教会を破壊する行動になったのです。

 ですから、主イエスが特別に顕われてくださり(使徒の働き91~9)、このイエスこそ、律法の学びや行動によってどうしても得られなかった真の救いを与えてくださる方であることが分かった時、何にもまさる、本当に深い喜びに満たされたのです。イエス様を知り、心底、求めていた救いを与えられたことについて、37~9節で感動して語っています。(朗読)

 

 主の救い、主の十字架と復活を知る時、生き方の根底が変わります。久しぶりに主を信じた時の救いの証しをしたいと思います。主を知る以前、私は将来、こういう職業につきたい、そして社会の中でこういう生き方をしたいという願いは持っていましたが、自分の内側深くには自分の人生はこれで良いと言えるものが何もないと感じていました。(生活の目的はありましたが、生きる目的がなかったのです。)

 それで、以前に読んでとても感銘を受けていた内村鑑三の自伝に影響を受けて教会に通うようになったですが、少しも自分の深い所にある問題は解消しませんでした。それどころか、反対に益々、自分に自信が持てないようになって、教会に通うことも苦しくなり、とうとう教会から離れてしまいました。いつも罪のことが言われて、内面に土足で入って来られるように感じて自分のプライドが傷つけられたように感じたのですが、今思うと、人前の姿と自分しか知らない実際の姿の違いを知らされて苦しくなり、その意識から逃避するために教会から去ったように思います。

 そのように教会に行くことをやめよう、神について考え、求めることはやめようと決心したものの、内面そのものは少しも変わっていませんから苦しさはそのままでした。そうした日々を過ごしているうちに、身内の大きな病気を通して命のはかなさを知らされ、なんとかしなければという思いが強くなり、再び教会に行こう、今度はちゃんと向き合おうと決心し、戻ったのです。

 ここには大切なものがあると感じるようになっていましたが、 けれども相変わらず教会で言われていることと自分との関係が分からなかったのです。聖書の中心は十字架による罪の贖いだと言われても自分との繋がりが分からなかったのです。

 聖書の言う罪が分からなかったことによるのですが、さらに突き詰めていくと自分のような者が神に愛されるはずがないという思いがあったのです。しかし、ある時に、ローマ58(朗読)によって、私が考えていた神の愛と聖書が伝えている神の愛は違う、聖書が伝えているのは罪人、神を無視し、背き、自分の思う通りの生き方をしている者を愛する愛であると知ったのです。

 それは衝撃であり、喜びであり、平安、希望でした。大げさでなく、これで生きて行ける、孤独や死を恐れる必要がないと確信しました。

 

◆(終わりに)神にある喜びは動かされることはない

 みことばが言う喜びは、表面的なものではありません。私たちの感情、状況から来る喜びではありません。それは、罪が贖われて神のもとに迎えられ、神の子とされ、死や終末の裁きの時にも勝利が約束されている、御霊によって与えられた御霊の実としての喜びです。(ガラテヤ522節、23) たとい、取り巻く状況が変わっても決して奪われることがない深い喜びです。

 みことばに、主にあって喜んでいなさいと言われていることに注目すべきです。神が私たちに与えてくださった喜びは比較によるものではありません。比較から生まれてくるのは、表面的なものです。主が信ずる者たちに与えてくださった喜びは、そんな比較によるものではなく、神が一人ひとりに対して、はっきりと与えられた救いからくる喜びです。失われていた羊が羊飼いによって見いだされて、羊飼いの肩にかつがれて安全なところに連れ戻されて、これからは羊飼いとともに生きるように変えられた喜びです。(ルカ15)

 ですから、よく知られている6~7節で、どんなに心配なことがあっても一人だけで悩まないで、感謝をもってささげる祈りによって、神に委ねよ、そうすれば人の全ての考えにまさる神にある平安がキリスト・イエスにあってあなたがたを守ってくれると言うのです。

 心せわしく、毎日追い立てられているように思える時こそ、主の前に静まりましょう。すばらしい恵みが与えられていることが思い出され、本物の喜びが沸き上がってくるでしょう。それが主の民の生活です。

 その喜びによって生きるために必要なのは日々の主との交わり、みことばと祈りの時です。忙しいからと言う人がいますが、宗教改革者ルターは「朝、主との交わりの時を持たないで一日も過ごすことが出来ない」と言って、忙しくなればなるほど、みことばと祈りの時を大切にしたそうです。主を信ずる者としての力強い生涯には、日々の主の前に過ごす時があったのです。一日一日、真の喜びを噛み締めながら、それぞれ遣わされている場にあって歩んで行きましょう。確かな深い

喜びこそ、主が与えておられる喜びです。