神の家族

・聖書:エペソ人への手紙2:11-19    ・山口契 伝道師

・中心聖句:こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

 

1.前回までの話 

 本日の中心は、中心聖句としても挙げました19節、「あなたがたは神の家族である」と言われる箇所でありますが、しかしこの意味をより深く知るためには、前の11-18節をよくよく考えなければならない。そのようなこともあって、前回の箇所も含む少し長めの箇所とさせていただきました。それはこの19節の冒頭を読んでも分かることで、「こういうわけで」、すなわち、これまで話してきたことの一つの結論を導く接続詞で始まっているのです。ではこの「あなたがたは神の家族である」という結論に至るまでにはどのようなことが書かれていたのでしょうか。前回の箇所を振り返ってみましょう。

 前回の個所v11-18 では一つの大きなテーマ、「和解」(あるいは「平和」)ということが中心に据えられていました。その和解、平和についての二つのことが語られています。一つは神と人との和解、もう一つは人と人との和解です。罪のうちに死んでいたすべての人(2:1)は、神との交わりが絶たれ、それゆえに神のない人たち(2:12)と呼ばれていた。神との関係は断絶していたのです。2:12にはこのように書かれています。そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。こちら側からは超えることのできない高く険しい壁が、神との間にはそびえ立っていたのであります。それはどのような状態であるかと言いますと、何か神的な、超越的神秘的な存在はうっすらと感じながらも、そのまことの姿をはっきりとは知ることができずに、霧の中を迷いながら歩くようなものであります。時に自分の感じる超越的存在を自分の都合のいい信仰の対象として造り出し、あるいは自分自身を信仰の対象として、心の拠り所にする。しかし、自分で造った神々からは本当の救いを得られるはずはありません。これらを言うなれば、海で溺れる人を一時的に浮かせ、安心させる、気休めのような浮き輪に過ぎないのです。一時は慰められたとしても、結局は、波に呑まれ、そのような拠り所もろとも沈んでいってしまうのです。本当の救いとはなりえないのです。私たちは海から引き上げられなければ、壁の向こう側へと引き寄せられなければ、ただただ滅びへと向かうだけ。そのような自分ではどうしようもない生き方をしていたのが、かつての神無き者、神との断絶にある人間の姿でした。だからこそ、彼らは望みを持ち用がなかったのです。

 

 さらにその壁は人と人とを隔てるものでもあった。この壁の故に、人は、本当には人を愛することができない、愛し合うことができない、そのような孤独の存在であったのです。前回の個所は特にそれを二つの人々から教えています。神の民、選びの民と呼ばれるイスラエルの民と、それ以外の国民、異邦人であります。そしてこれらの人々の間にあった壁、隔ての壁が教会の分裂を引き起こすほどの大きな問題となっていたのでした。

 

 四方が冷たい壁におおわれた部屋にあって、私たちは孤独の中を生きていた。誰にも助けを求めることができず、自分自身で自分を慰め、しかしそれさえもいつかはできなくなる。苦しくなる。天を見上げても、そこにも厚い壁があり、どこに拠り所を求めていいのか分からないのです。しかし、そんな孤独の中でもがく私を助けるために、この壁を打ちこわしてくださった方がいた。暗い部屋にいた私に、光を届けてくださり、冷たい壁に囲まれていた私を引き出し、温かい懐に招き入れ、抱いてくださった。これこそが、パウロが強調して止まない、かつての姿から今の姿への変化、つまり、私たちの救いなのです。

 

 そのような救いをもたらしてくださったお方がいます。神様との間にあった壁を打ちこわし、本当の救いを与えてくださるまことの神、父なる神を知らせてくださったお方。人との間にあった壁を打ちこわし、愛するということ、愛し合うということの素晴らしさ、豊かさを教えてくださったお方。その方こそ、私たちの主イエスキリストでありました。v13-17しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。

 その豪腕を持って力強く壁を打ちこわされたのではありません。この壁を崩すために、キリストは血を流されたのです。人々のそしり、あざけりを受け、苦しみの道を通り、十字架にかかられた。これらは本来壁の中に一人たたずむ私たちが受けるはずだった苦しみであり、流さなければならなかった血であり、くぐらなければならなかった死であります。しかし、身代わりとなって一身に受けてくださったこのキリスト、ただイエス様の十字架によってのみ、私たちは神様との和解が与えられるのです。神との平和が与えられたことに加え、遠くにいた異邦人にも、近くにいたユダヤ人にも、同じ平和が届けられたのでした。この平和の完成はすでに1:10で高々と賛美されていました。言い換えれば、このすべてのものが一つとなるために、平和をもたらすために、イエス様は来られたのです。イエス様は十字架によって二つの平和をもたらされました。それが、繰り返し語って来ました「神との平和、人との平和」であります。イエス様の十字架によって私たちを四方八方から押しつけていた冷たい壁は取り除かれ、孤独の私たちに「平和」が与えられたのです。

 

 聖書が教える「平和」とは、単に争いがない状態ではありません。同じ言葉で「平安」と訳されることばがありますが、これも単に波風なく、問題や困難、試練がない状態ではありません。周りがどうであるかではなく、その人が、あるいはその人の関係が、「満たされる、完全である」ということがこの平和が意味するところであるのです。関係においては、その関係がもとの固く結びついた状態に戻るということを意味している。であるからこそ、イエス様は、安心して行きなさい、別の訳では、平和のうちに生きなさいと言われる。平和とは与えられて終わるものではありません。平和が与えられたものは、平和の中を生きることができる。神の愛、人の愛の中を生きることができると言っても良いでしょう。困難がなくなるわけではありません。悲しみや苦しみが綺麗さっぱりなくなった状態が与えられること、だけを言っているわけではないのです。そうではなく、どんな困難な中にあっても、どんな悲しみの中にあっても、神との平和、人との平和が与えられている者は、決してかつての孤独ではない。神様の力強い御腕に支えられ、人と寄り添い合って生きることができるのです。絶えずともにいてくださる神を賛美し、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣くように変えられたのです。

 

2.神の家族と呼ばれる教会について 

■神の国の平和を体現している存在としての教会

 さて、長くなりましたが、このような11節から18節までを受けて、本日の中心聖句19節「こういうわけで」に至ります。もう一度、19節をお読みします。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。こういうわけで。すなわち、キリストの十字架によって、神との平和、人との平和を与えられたので、そのゆえに、「あなたがたは神の家族である」と言われているのでした。あなたがた、とはこの手紙を受け取るエペソという町の教会の人々であります。いうなれば、教会はこのキリストの十字架によって与えられた「和解、平和」の、目に見える形であると言えるでしょう。平和の実現こそがイエス様の十字架によって建てられた教会である。先ほど1:10にその神の計画の完成、平和の成就を見ましたが、教会はその途上にある、今なお罪深い世にあって、すでに平和を体現するものであるのです。

 

 初めに二つの否定から始まります。「もはや他国人でも寄留者でもなく」。かつてと今の対比は、この2章では繰り返し語られていました。いや単に繰り返して強調されるわけではなく、v11では「思い出してください」とさえ言われている。あなたがたのかつての姿、罪に死んでいた姿、隔ての壁によって遮られていた孤独の姿。しかし「もはや」、今ではそうではない。ここで言われている「他国人、寄留者」とは厳密に言うと区別がありますが、いずれにしても言えることは、彼らにはその地その国においての正統な権利がないということであります。共に住んでいる、共に生活している。けれども、そこには確かな違いがあったのでした。国民とは同等の権利がない。イスラエルの国から除外された者である、ということは12節で言われていたことであり、かつての異邦人の姿とも言えるでしょう。約束の契約については他国人、約束の契約について正統な権利をもっていなかった。もう少し言うならば、神の国の市民権を持っていなかったのです。神なき者にとって、救いはどこまでも得難い者であり、それゆえに、神の民であると自負していたユダヤ人からははっきりと拒絶されていた。しかしもはやそうではないのです。イエス様の十字架により、イエス様を救い主として受け入れたあなたがたは、聖徒たちと同じ国民であり神の家族である。神様の愛を知ったパウロの一つの結論が、ここに高らかに宣言されているのでした。

 聖徒、直訳ではきよい人々となります。聖書できよいと言われるとき、「取り分ける、区別する」という意味があります。旧約聖書の大切な概念として「聖別(字の説明)」というものがありますが、これは「神のものとして取り分けられたこと、他とは区別されたこと」を意味しているのです。「あなたはわたしのものである」というのが旧約聖書から続く神様の約束の言葉ですが、あなたがたは聖徒と同じ国民である、というのも同じであります。思えばこの手紙の最初から、パウロはエペソの人々に聖徒たちよと語りかけていました。あくまで、聖、きよいとされる、宣言されるのは神様であります。人ではありません。聖徒である国民、これは明らかに神の国の国民という意味ですが、その神の国の正統な市民権をあなたは持っているのです、と神は言われるのです。人の目に、どんなに立派な人物に映っても、どんなに強く偉大な英雄であっても、神様に、あなたはわたしのものである、と言われなければ、人は自分では聖徒とはなり得ないのです。いや、ただ単に形式的にきよいとはんこが押されるだけでは終わりません。機械的に市民権が発行されるだけではないのです。あなたは家族だよ、大切なわたしの家族だよと、両手を広げて迎えて入れてくださっている。権利を持たない他国人どころか、神なく望みのない人々どころか、神の家族、神の子として迎え入れられている。それが救われた私たちひとりひとりであり、そして教会なのです。

 

 前回、神との和解ということをお話ししたときにも、放蕩息子の例話を挙げました。父が手を広げて迎え入れたのは、美しく着飾った、父に従順な息子ではありません。父から自分勝手にはなれ、言い換えれば自ら関係を絶って飛び出していった者でした。その自分の欲に従う生活の末に身なりはぼろぼろ、世話していた豚のえさを食べたいほどにおなかをすかせていましたから、容姿も相当に変わっていたことでしょう。にもかかわらず神は、そのかつては息子だった男を見つけるや否やなりふり構わず駆け寄り、ぎゅっと抱きしめ、再び子どものしるしとしての指輪を与えられるのです。存在を愛し、さらに法的にも息子として認められる。エペソ書1:13ではこのように言い表わされていました。この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊を持って証印を押されました。さらに14節聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。証印を押され、保証が与えられた。この「保証」は現代ギリシャ語では婚約指輪を表わす言葉でした。家族の核となるのが夫婦関係ですが、この二人を結ぶ約束、しるしを表わします。周りの人にはその二人の関係を伝え、婚約した二人は自分たちがどのようなものであるかを確認するのであります。それが私たちが救われたことの保証としての聖霊であり、放蕩息子のてにはめられた指輪の意味です。

 

 教会が神の家族であると言われるとき、二つの見方ができるでしょう。一つは放蕩息子の例でもみました父と子の関係、もう一つは、婚約指輪に見られる夫婦の関係です。父と子、父なる神様と、キリストの故に子とされた私たちひとりひとりとの関係はよく聞くところでありますし、家族を覚える上でとても重要なものであります。しかしそれと同時に、家族の最小単位である夫婦を覚えることも忘れては行けないのです。父と子は血縁で結ばれる者ですが、夫婦は契約で結ばれる者である、といえるでしょう。それぞれが別々の環境で生まれ育ち、しかし主の働きの中で出会わされ、結ばれる。神の家族であると言われるとき、この視点を忘れては行けません。全くの他人であった二人が、家族とされる。そこには、確かに神様の導きがあるのです。もちろんすべての人に結婚のみちびきがあるとは限りませんし、独身の召しがあることも聖書は確かに教えています。それは人には分からないところです。

 

 そのようなことに注意しつつ、創世記2章には、創造の出来事の完成として、結婚があることが教えられています。神はお造りになったものを見られ、その度にそれは良かったと言われます。しかし、2:18、「人が一人でいるのは良くない」と初めて「良くない」、「未完成」であると評価をされ、さらに続けて「わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう」と言われたのでした。そしてその言葉どおり、神様はそのような存在を出会わせてくださる。キリスト教式の結婚式では、花嫁の父親が花嫁を連れて歩き、花婿のところへと向かいます。それはこの創世記の箇所、神がアダムのもとへエバをつれて来られたという出来事を表わしていると言われます。神の導きによって、二人は出会い、結ばれ、家族となる。イエス様もまたこの結婚の関係を「もはやふたりではなく、ひとりなのです。」とし、さらに「神が結び合わせたものである」ことを強調しておられます。このことを考えますときに、教会もまた、ひとりひとりがそれぞれに生きていたところから、神によって導かれ、神との和解が与えられた故に、一つとなった家族であるということができるのではないかと思うのです。つまり、家族とは神様が結び合わせた者である、ということです。

 

 父なる神との平和が与えられ、それまで何の関わりもなかった人、或いは憎しみを覚えるほどの相手とさえ、キリストの故に平和が与えられている存在。それが教会です。だからこそ、互いに愛し合うことは教会の自然な姿であると言えるでしょう。それこそが平和の実現として建てられた、私たち教会の姿なのです。確かに家族でも衝突はあるでしょう。なかなか分かり合えないこともある。子どもの反抗期はあるし、夫婦でぶつかることもある。けれども、もはやかつての壁に囲まれた私たちではないのです。神を知り、他者を愛することを知った私たちは、それらの衝突を超えていくことができる。そのような存在として変えられているのです。この平和とはほど遠い、争い多く悲しみが満ちあふれている世界にあって、当たり前ではない大きな恵みが私たちには与えられている。それを今朝もう一度覚えたいと思います。神との平和、人との平和。その上に立て挙げられた教会であることを覚え、そして私たちひとりひとりであることを覚え、新しい週の歩みを始めてまいりましょう。