信仰と自由

川口 昌英牧師

聖書個所 ヨハネの福音書831~38節                    

◆()人の考える自由

信じていない人が心配することの一つに、教会に通い続け、神様を信ずると自由がなくなるのではないかということがあります。個性、人格がなくなり、本来の姿を失うようになるのではないかと思うのです。

 キリスト教だからというよりも、宗教全般に対する警戒心だと思います。その恐れが強いあまり、どの宗教であれ、信仰を持つことそのものを毛嫌いする人もいます。

 そんな状況は、二つの理由から来ています。一つは、マインド・コントロールによって、大きな社会問題を引き起こした事例から宗教はすべて同じ、変わりがないと思っていることです。(そのように宗教を嫌うものの、しかし、実は自分も神はいない、人生の目的も基準などない、人の考えが全てであるという考えを信じていることには気づかないのです。)

 もう一つは、自由についての誤解からです。今は、近代において導入された制度としての自由があるから、自分は自由であると考えるのです。社会の制度、国の体制としての自由を考え、個人の生き方、特に内面の自由はあまり深く考えないのです。また考えたとしてもそのままを見ないで、偏って見ているのです。

 どういうことかと言いますと、「行う自由」、考え、行動する自由ばかり思い、反対の「しない自由」には注意を向けないのです。たとえば、男女間の交際についても何でも自由である、今や束縛するものはなくなったというが、互いに相手を思いやり、相手を尊重し、大切にする自由について考えないのです、又自分よりも弱い者をからかい、いじめる自由があると言うのですが、その人を自分のように思い、その哀しみを思い、そんな行動を控える自由は持っていないのです。分かりやすいのは、健康に悪いと分かっているタバコについて、飲む自由はあると言うが、自分や周りの人の健康を大切にし、飲まないという自由はないのです。このように、人は、自由を都合よく解釈しています。一部だけ見て、自分は自由であると思っています。

 

そんな都合の良い考えと違って、神のことばである聖書は、自由の本質、内面を深く見つめています。本日の個所において、自分たちは自由だ、誰の奴隷にもなったことがないと言い張るユダヤ人に対し、主は「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(834)とはっきり言います。

 先の例で言いますと、自分よりも弱い者をからかい、いじめることについて、自分では悪いと思っていても他の人と同じようにそうするのは、それは自由ではなく、反対に罪の奴隷だと言うのです。或いは、体に良くないと分かっていてもそれをしてしまうのは、自由でも何でもないのです。むしろ、罪の奴隷と言うのです。

 

このように、人が自由と考えることが実は罪の奴隷であることを聖書にはっきり指摘しています。人間的自由と罪の関連について述べているローマ書118節以下に「神は引き渡された」という表現が何度も出ています。24節、26節、28節です。人があまりにも頑なゆえに、神は、罪のままに生きるようにさせた、そしてそれを人は自由と思っているという意味です。

 具体的姿が、有名なルカ15章の放蕩息子です。あまりに主張するので、父は弟息子に思うままにさせたのです。一見、自由を得たように見える行動でしたが、父のことや、父からもらった財産を大切にするという思いを持たない、ただ自分のしたいことをしている姿です。それは自由ではなく、罪の支配、奴隷であったのです。このように人が思う自由というのは、実は、罪と死の支配の中にあること聖書は言うのです。

 創世記に記すように、罪をおかして以来、人は真の自由を失ったのです。創造主である神に背き、善悪の基準が自分中心となることによって、自分の欲望のままに生きる自由を知るようになりましたが、神のみこころに従う自由や、他の人々を愛し、尊重する自由は失ったのです。

 

◆(本論)真の自由  

どうしたら、人が考えるような表面的、自分中心のものではない、例えば、神のみこころの中心である「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」ようになる自由、これこそ、罪に陥る前に持っていた本来の自由ですが、を得ることができるのでしょうか。

   人が考える自由は罪の奴隷の姿であることを指摘された主イエスは、 その真の自由について、 こう言われています。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ831) 「ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」(36)

 みことば、その中心にある神の憐れみを受け入れる時に、人は主の弟子となり、真理(ヨハネ146節に明らかなように主イエスのこと) を知る、そしてその救い主イエスを深く知るとき、人は真の自由を得ることができると言うのです。主イエスがなしてくださった救い、与えてくださった罪と死に対する勝利、豊かな愛と慈しみ、又平安を知るときに、罪に支配され、覆われていた心が満たされ、自由が与えられるというのです。

 福音書の中にそういう人々が多く記されています。町の中で知らない者がいないぐらいの不道徳な生活を送っていた女性(ルカ7)、取税人ザアカイ(ルカ19)、サマリヤの婦人(ヨハネ4)などです。この人々の救われた後のことについて、聖書はあまり書いていませんが、彼らは、内側深く人格の中心が満たされ、真の自由を得たのです。

 

私たちを本当に自由にして下さるのは、罪のために身代わりの十字架の死を受け、三日目に甦られ、完全に罪と死に対して勝利を与えてくださった主イエス様のみです。そしてこの自由を知る時、私たちの現実生活が変わるのです。神を愛する、また隣人を愛することが義務ではなく、喜びになるのです。又いわれのない非難や迫害を恐れないようになるのです。

 

◆(終わりに)自由について心配する人々へ

 以前、説教の中で、婚約者がいながら他の男性と関係を持っていた女性のことを聞いたことがあります。してはいけないと頭では分かっていながら、どうしても断れなかったそうです。しかし、この人が教会に行き、福音を聞き、罪を告白し、主イエスを信ずる決心をし、その状態を解消することができました。真理、主はこの人を自由にしたのです。

 主イエスによる自由は、人を恐れなくさせます。又、自分をも恐れなくさせます。神を、そして人を心から愛するように変えてくださるのです。

 神が私たちに与えられている自由は、本当にすばらしい自由です。ともに主の栄光のために用いさせていただきましょう。

 使徒パウロは、次のように言っています。「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきをおわせられないようにしなさい。」(ガラテヤ51) 再び、罪の奴隷になってはいけないという意味です。愛されている、赦されていることをいつも心深くに覚えて、御国の民として生きて行きましょう。(ピリピ127)