洪水が押し寄せても

説教 川口昌英 牧師

聖書個所  ルカの福音書646~49

中心聖句  その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。           ルカの福音書648

説教の構成

◆()この個所について

 罪と死の支配より救うために、完全な神でありながら、完全な人となられた主イエスは、人々に語る時、多くの譬えを用いられました。当時の誰もが知っている自然界のこと(例、空の鳥や野の花など)や作物のこと(例、さまざまな地に落ちた種や植物の生長する姿など)や社会生活のこと(例、婚礼への招待など)、或は商売のこと(それぞれタラントを託された人たちなど)を取り上げて、霊的真理を伝えようとされたのです。

    譬えを用いることについて、主はマタイ1310~14(朗読)で、その理由を説明しています。言うまでもなく、第一の目的は、人々に分かりやすく真理を伝えるためですが、一方「聞く耳のある人は聞きなさい。」と言うごとく真理を求めている人が明らかになるためという理由もあったのです。

 本日の個所を見て行きますが、この譬えは、ルカの福音書だけでは分かりにくいのですが、マタイの福音書を合わせて見ると、主が信仰の本質を明らかにした所謂「山上の説教」の最後に位置していることが分かります。人にとっての真の祝福や真に神を信ずる姿について語って来たその締めくくりとして、この譬えが話されているのです。

 それまで語って来たことを踏まえながら、まとめとして「わたしのことばを聞き、それを行う者たち」と反対の「聞いても行わない者たち」のことを言うのに、川のそばに家を建てる二通りの人を例を用いて、聞いて行う者は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人」に似ている、又、聞いても行わない者は、「土台なしで地面に家を建てた人」に似ていると言われていることにとても注目させられます。

 主は何故、真の祝福や真の信仰の大切さ、それは主が人となり、この地に来られた目的に他ならないのですが、それを受け入れ、従うことの大切さを伝えるために、川のそばに家を建てる人というとても緊迫感に満ちた譬えを用いられたのでしょうか。それは、その譬えが、人の生涯の現実を最も率直に写し出していると思われたからです。人生は川のそばに建てられている家のごとく、好むと好まないとに関わらず、試練が洪水のように押し寄せ、そしてその人生の中身が明らかになると思われたからです。

 

◆(本論)主がこの譬えによって伝えようとされていること

このように、人生は川のそばに建てられた家のようなものですから、土台が非常に重要であると言われるのです。地面を深く掘り下げて岩の上に建てられているか、それとも堅い土台なしに建てられているか、洪水になり、川の水が押し寄せる時にその家の真価が明らかになると言います。一方はそんな川の水が襲う時にも、しっかり建てられているゆえにびくともしないのに対し、他方はいっぺんに倒れてしまい、しかもひどく倒れてしまうと言うのです。

 大事な土台とは何でしょうか。それは主が言われるように、主のもとに行き、主のことばを聞き、それを行うことであり、又主が明らかにされた真の祝福、真の信仰、主が救い主としてこの地上に来られた目的を受け入れ、委ねることです。

では何故、人はここでいうように土台をしっかり据えて家を建てる人と土台なしに家を建てる人に分かれるのでしょうか。そして大きく結末が違うのでしょうか。それは人生において何を大切にしているのか、求めているのかの違いです。

土台なしに家を建てる人とは、見えるもののみ、人間的幸福、豊かさ、社会的立場、評価、栄誉、欲望満足のみを追い求める人です。それに対して、堅固な土台を大切にする人は、人生の見えない部分、人が生きることの本質に関することがらを大切にする人です。

 人が生きることの本質に関することがらを大切にするとは、今見て来たような見えるものを決して軽視するのではありませんが、人生はそれだけでない、見えないけれども大事なものがあると考え、重視することです。それは、自分の姿を率直に見て、自分が罪人であること、まことの創造者である神から離れて、背いて生きていることを認め、そして、そんな罪人である者に向けられた神の愛を受け入れ、悔改めて、全てを委ねて生きることです。 この譬えで言う「地面を深く掘り下げて岩の上に土台を据えて、それから家を建てる人」とは、このように、福音を受け入れ、委ね、神の子とされている人です。

 この世の幸福がものごとが全てうまく行っているという意味であるのに対し、この主の恵みを与えられている者は、たとえ、洪水になり、川の水が押し寄せるような試練に襲われても、この土台の上に人生が建てられていますから、流木やごみが来たり、押し寄せる水のゆえに、危険を感じることがあっても全体はびくともしないのです。(ローマ835~39)

 

◆(終わりに) 岩の上の人生を歩んだ人

   具体例を話したほうが分かりやすいと思います。よくご承知の三浦綾子さん、旧姓堀田綾子さんは、戦前、女学校を卒業した17才で小学校教師になり、一生懸命に子どもたちの教育にあたりました。当時は、戦時体制でしたので良い国民、男子は兵隊、女子は銃後の働き、戦争を支える働きをするように子どもたちに教えたのです。ところが敗戦によって戦争が終結し、国の体制が大きく変わり、子どもたちに今まで通りのことを教えられず、教科書に墨を塗るように言わなければなりませんでした。戦争が終わったことは喜びでしたが、子どもたちに誤ったことを教えてきたという自責の念に覆われ、心身ともに無力感に襲われ、綾子さんは虚無的な思いになり、そしてそういう生き方をするようになり、遂に体を壊し、当時、重病とされた結核から更に脊椎カリエスになり、寝たきりの生活を送るようになったのです。しかし、療養中に、そんな綾子さんを心から気遣い、後に婚約者となった幼なじみのクリスチャンの青年により、(この人も実は結核で闘病中でした)、愛すること、人生に対する姿勢を深く教えられ、やがて自身も神の愛を知り、洗礼を受け、クリスチャンになりました。

 けれども、その綾子さんの心に灯をともしてくれたその人が、これからのためにと思い切って受けた肺の手術によって亡くなったです。今までの生き方を悔い改め、神を信じ、人生の希望を見いだしていた綾子さんには堪え難い悲しみであり、苦しみの時でした。何故、神様はこのようなつらい出来事にあわせられるのか、寝たきりの中で、苦しまれたのですが、その婚約者に導かれた信仰と愛に支えられ、又自分も知ることができたキリストの救いのゆえに守られ、以前のように虚無的になることはなく、出来る限りのことをして療養の日々を過ごされたのです。

 そうした時に、投稿していた短歌の同人誌仲間の方が綾子さんの見舞いに来られたのです。四歳年下の端正な方でした。後になって結婚した、綾子さんの人生に本当に大きな意味を持たれた三浦光世さんでした。こうして、光世さんと綾子さんは結婚し、それぞれさまざまな弱さを抱えながら、互いに支え合い、いつも共に歩み、そして今も多くの人々に生きる勇気を与えている数多くの作品を残されたのです。そしてご主人の光世さんは、綾子さんなき後も神の愛が土台にある人生の豊かさを著作を通して、又各地において人々に語っておられます。

 苦労がないのではありません。必ず洪水が起こり、川の水が押し寄せるように、試練が絶対にあるのです。しかし、土台がしっかり岩の上に建てられているなら倒れることはないのです。私たちの人生はどのような姿でしょうか。岩の上に建てられていますか。それとも土台なしでしょうか