キリストと結びついて歩む

❖説教 川口昌英牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙13章8節~14節

❖中心聖句 主イエスを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

                        ローマ人への手紙13章14節

❖説教の構成

◆(序)この個所について

 この世の権力に対する姿勢について述べた後、8節から10節において、使徒は、(キリスト者は、共に生きている人々を真に大切にする、愛することを伝えるために)、神の愛を知った者は、律法に示されているように隣人を愛する、律法を全うしますと言います。律法は、人が罪の支配のもとにある時には、人を裁くように働いたが、しかし、人が義とされた後では、元の意味を取り戻している、(それゆえ)神の愛を知リ、救われた者は、律法に定めている行いを全うし、人を愛すると言います。

 この世の現実権力との関係について述べた後、何か唐突な感じがありますが、クリスチャンに対する警戒心が散見する状況に対して、信仰者は神の御心に対して誠実に歩む者であり、従って社会の中でも信頼できる存在であると伝えるのです。

 続いて11節から14節において、時代状況について語り、救われ、義とされた者として生きる姿勢を鮮明にするよう促しています。義とされたことに現実感を持たず、喜びも意識も持たない生ぬるい人々、そしてふさわしくない、怠惰で肉の思いである、遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみといった闇のわざを行っている者たち、義を軽んじている人々に対して、神が定めた時が迫っている、眠りから覚めて、光の武具を身につけ、昼間らしい、正しい生き方をせよ、主イエス・キリストを着よと警告するのです。

 関連が分かりにくいところですが、神を知らない人々から誤解されないように、義とされたことを軽んじている者たちに、(神の)時が近づいている意識を持ち、眠っているような生ぬるい生活、又さまざまな闇のわざを打ち捨てて、神の民らしい生き方をするように訴えているのです。このように言うのは、良いにしろ、悪いにしろ、クリスチャンは自分で思っているよりも世から注目されている存在であるということがあるからです。

 

◆(本論) 現代にもあてはまる警告

①始めに、このところの警告は、義とされた全てのクリスチャンに残る弱さ、未熟さについてではないとを知ることは大切です。

 神の愛が分かり、悔い改め、主を受け入れてもただちに完全に清くなるわけではないことは、いつも話している通りです。神の子とされ、聖霊が与えられ、生きる中心に喜び、平安、希望が与えられていますが、聖書は、人は救いを受けた後でも土の器(第Ⅱコリント4章6節~7節)と言います。決して完成されたわけではありません。したいと思うことができず、却ってしたくないと思っていることをしてしまうというあの有名なローマ7章18節~19節(朗読)は、救われる前の姿だけでなく、救われた後の姿でもあるのです。主のみからだである教会に属し、御霊が与えられ、神の子とされ、霊の糧であるみことばが与えられているという豊かな恵みを受けていても、人は尚、弱さを持ち、未熟なのです。

 それに対して、ここで警告されているものは違います。このところで言われているのは、今言った誰にも見られる姿ではなく、むしろ分かっていながら神の義を軽んじている姿です。豊かなめぐみ、いつくしみを受けていながら、たかをくくり、救われていることを軽視している姿です。黙示録3章14節以下に言われているラオデキヤの教会のような生き方をしている者たちです。(朗読)

  主から離れているわけではないが、自分勝手なわがままな生活を送っているのです。

   外部の教会の礼拝に出る機会はそう多くありませんが、それでも礼拝においてみことばを語る時がありますと、その教会の霊的状態がなんとなく分かります。おこがましいのですが、三つぐらいの姿があるようです。第一に本当に主を恐れている、先ほど話したようにさまざまな弱さ、未熟さを感じながらも主を恐れている人が多いなと感じる教会と、第二にしっかりしているように見えるけれども人間的、自分たちの思いが強い人々が多いと感じる教会です。罪に砕かれ、ただ信仰の創始者であり、完成者である主イエスを仰ぐという感じがしない、自分たちを誇っている教会です。そして、第三に、信仰の喜びも平安も希望も現実のものと思わず、救われていることを大事にせず、自分の思う通りの生活をしているのではないかと感じる人々が多い教会です。霊的に、どんよりとした雰囲気が漂っている教会です。

 主イエスを自分の主と告白している教会であるのに、どうしてこのような姿になるのでしょう。始めから自分を誇ったり、喜び、平安、希望がなかったのでもありませんし、いいかげんな雰囲気であったわけではありません。土台である初めの愛、主からの愛、主への愛を失うことによって、信仰の中心のいのちを見失い、信仰生活が喜びがないものになり、そればかりでなく、求めて来た人々にもつまづきを与えるのです。 

 

②使徒は、そういう人々に対し、今がどのような時であるのか、神の時が近くなっていることを知り、霊の目を覚まし、誰にも知られることがないと思って行っている遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活などといった闇のわざ、肉の欲の行い、これは当時のローマ社会に満ちていたものですが、いつでもどの社会にもみられるものです。義とされた者としてそれらを打ち捨てて、はっきり捨てて、光の武具を身につけ、いつ主とお会いしてもよいような昼間らしい、正しい生き方を求めよと注意をしています。闇のわざに対して、光の武具や昼間らしい生活と言われています。ここで言う光の武具とは以前に詳しく見ましたエペソ6章13節~17節に言われている「真理の帯、正義の胸当て、足の平和の福音の備え、信仰の大楯、救いのかぶと、御霊の与える剣である神のことば」のことです。これらを一つひとつ身につけることによって誘惑や攻撃に対して立ち向かうことができ、いつ主とお会いしても良いような生き方に導かれるのです。

 

◆(終わりに) 過去は変えられないが、現在と将来は変えることができる

   最後に使徒は、まとめとしてキリストを着なさい、肉の欲のために心を用いてはなりませんと注意します。キリストを着るとは、パウロ書簡のところどころに出て来るとても面白い表現です。深く結び着く、一体になる、そして、守られ、深い愛に包まれて生きることです。

 救いの恵みをいただきながら人は何故、その恵みを軽んじるのでしょう。先に述べたように初めの愛を見失うゆえですが、実は、そうなるのは救われる前の経験が影響していると思われます。人格形成時の人間関係、特に中心の人間関係において受け入れられなかった、否定された経験が救われた後も現実の生活においてしこりのように残り、そして、寂しさや孤独を感じると、自分でもどうしようもなく、ここに出ているような闇のわざをしてしまうことが多いと思います。

 けれども、そのような過去がある人であっても、主が与えてくださった義は、大きくて深い意味を持っています。それゆえ、霊の目を覚まし、今の時を知り、光の武具をつけ、昼間らしい正しい生活を行いなさい、キリストを着なさいというのです。何故なら、キリストは私たちの全てを受けとめてくださり、愛し、今も変わりなく共にいてくださるからです。キリストと一体になり、たとえ廻りが罪ある生活をしていても、あなたは良い証し人として歩みなさいと言うのです。

 人は人を変えることができません。しかし、神はどのような過去を持つ人であっても、その人の現在、将来を変えることができるのです。キリストを着続けることが大切なのです。そして証しの生活をすることが望まれています。やがて主の栄光を表す充実した生涯になるのです。