私たちの平和

■聖書:エペソ人への手紙2:11-18①    ■説教:山口契伝道師

■中心聖句:キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

 

1.     はじめに 

 エペソ人への手紙を続けて読んでいきます。本日の箇所は、先ほどお読みいただいた2:1118。「教会とは何か」ということを共に教えられたく願いこのエペソ書を読んでまいりましたが、いよいよ本日の箇所から、その教会についての教えは中心部に入っていきます。前回までの箇所、二章の前半部分ですが、罪に死に神の御怒りを受けるべきであったかつての私たち(v1-3)は、あわれみ豊かな神の愛を一方的に受け(v4-9)、神の作品として新しく造られた者である(v10)ということを見ました。それに続く本日の箇所は、「ですから、思い出してください。」というパウロの、エペソの人々への願いから始まり、彼らの直面していた問題について語りはじめます。11,12節をお読みします。

2.   「思い出してください」〜かつての姿〜 

 v11ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、v12そのころをあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神も無い人たちでした。ですから、というのは直前の内容を受けての言葉ですので、あなたがたは神の作品として新しく造られた、造り変えられたの「ですから」と読むのが良いでしょう。10節の造られた、というのは、創世記のはじめ、天地創造と同じ言葉が使われています。死んでいた者が神の恵みのゆえに救われた。私たちの救いは天地創造と同じ歴史的大事件なのだということを教えています。しかし、だからといって、忘れてはいけないことがあるとパウロは言うのです。覚えていてくださいとも訳されるこの言葉。つまり、ふっとことあるごとに思い出すというよりも、いつも覚えておく、心に刻んで生きるということにもつながります。今はもう主を信じ全く新しくされた者であっても、覚えるべきこと。それは、この手紙を受け取るエペソの人々のかつての姿、肉においての異邦人の姿でした。実はこの以前の姿を思い出させようとするのは、冒頭でも触れました前回までの箇所にも見られるところであります。再びかつての悲惨がどのようなものであったのかを思い起こさせ、そこから救われていることの喜びに満たされ、エペソの教会が抱える問題を超えていくようにと願っているのです。かつてのエペソの人々、それは肉において異邦人、無割礼の人々であり、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神も無い人たちであった。これらは神の選びの民、ユダヤ人との比較から言われている異邦人の特徴であります。後ほど見ますが、当時の教会にはこの比較が差別となって教会の中ではびこっていたのでありました。その結果は分裂です。1;23であれほど高らかに歌われていたキリストのからだなる教会は、引き裂かれようとしていたのでした。

 

①神なき者、望み無き者

 アブラハムの時代、神様がアブラハムとの約束のしるしとして与えられたものが割礼です。創世記16:11「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」ここでの契約とは、直前に言われている「わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となる」というものです。つまり、神の民のしるしとして割礼という儀式を受けるように言われたのでした。さらに14節「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」この割礼を受けていない者は明らかに神の民とは区別されることを教えています。神の民ではない者はキリストを持たない。ここでのキリストとはイエス様のことではなく、より一般的な意味での救世主、救い主を表わすようです。異邦人の特徴として、まず最初にキリストから離れていることが挙げられるのは、すべてはここから出ているものだと説明されます。神の民ではない者には、このやがて来られると約束されている救い主を知りません。ユダヤ人は捕囚の中にあっても、様々な苦難の中にあっても、いつもこの救い主、メシヤがやがて来られることを待ち望み、希望を持つことができました。それとは対照的なのがキリストから離れた異邦人です。どんなにその世界を楽しんでいたとしても、キリストから離れ、救い主を知らない者たちにとって、その先にある希望は持ち得ないのです。さらに彼らは神も無い人たち。いや、彼らも礼拝の対象はたくさんもっていました。現にエペソにもアルテミス神殿をはじめとする篤い信仰がありました。しかし、神を知る唯一の道であるキリストから離れている彼らは、望みを持たないのと同様、まことの神を知ることもできなかった。これらのことはやはり神の民ではなく異邦人である私たちにとっても多く当てはまることであり、この悲惨を覚えていなさいと言われていることを心に留めたいと思います。

 

②隔ての壁と敵意の中で  孤独

 さて、これまで異邦人たちの以前の姿を読んでまいりました。13節からはそのような以前の姿からいかに変えられたのかが力強く描かれていきます。しかしながら、もう少し思い出しなさいと言われるかつての姿に目を留めたいと思います。先ほど申し上げましたが、11,12節は神の民ユダヤ人との比較の中で表わされた異邦人の姿であります。そこには明らかに差別が含まれ、互いにいがみ合っていました。14,15節の前半をみますと、次のようにあります。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。かつては二つのもの、これはユダヤ人と異邦人ですが、この間に隔ての壁があり、そして敵意があった。現にそれは深刻な敵意でありました。実はこの隔ての壁とは、エルサレム神殿の一つの壁であると考えられています。そこには「他国民はいかなる者も、この障壁内、神殿周辺の構内に立ち入るべからず。これを破る者は誰でも死罪に処せられる」と書かれていたそうです。聖書の中にもその言葉を破り、命の危険にさらされた人物がいました。それが他ならない、この手紙の著者であるパウロだったのです。使徒の働き21:27-29をお読みします。ところが、その七日がほとんど終わろうとしていた頃、アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロが宮にいるのを見ると、全群衆をあおり立て、彼に手をかけて、こう叫んだ。「イスラエルの人々。手を貸してください。この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。その上、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所を汚しています。」彼らは前にエペソ人トロピモが町でパウロといっしょにいるのを見かけたので、パウロが彼を宮に連れ込んだのだと思ったのである。興味深いことに、エペソ人といっしょにいたことから因縁を付けられています。これほどまでに、両者の溝は決定的であり、その隔ての壁は高く厚く、その敵意は凶悪なものだったのです。エペソ書に戻って15節の続きを読んでみますと、敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法であると書かれています。ユダヤ人たちは、はじめに神が与えられた律法に自分たちで勝手に付け加え、様々な細かい点にまで言及する戒めをつくって来ました。その意味では、彼らも異邦人と同様、神から離れた者であると言えるでしょうか。資料によりますと、手を洗うこと一つをとってみても実に二十六箇条の規則があったそうです。また、勝手に付け加えられた戒めの中には、異邦人に対するものも多く、異邦人の母親が陣痛でひどく苦しんでいる時にも、必要としている手助けをしてやることは禁じられていますそれは罪にまみれた異邦人をひとり世に生み出すことの手助けになるからだ、と定められるほどでありました。先ほどの割礼にしても、パウロは「肉において人の手による、いわゆる割礼」といって、神が本来定められた「霊の割礼」とは明らかに区別し、形式的なものになり下がっていることを教えています。しかしそれを誇り、それを持たない異邦人を敵視する。ユダヤ人と異邦人の間には敵意がありました。自分勝手な理屈やルールで生み出された敵意が、教会の中でもなお根強く、猛威を振るい、キリストのからだを引き裂こうとしていたのでした。

 

 いや、思えば、パウロ自身もそのような敵意に身を任せ、かつてクリスチャンを迫害していた人物でした。同じユダヤ人同士でも憎しみ合い、殺し合うのです。そのように考えるならば、ここで言われる隔ての壁、そして敵意は、異邦人とユダヤ人の間だけでなく、すべての人が持つ者であると言えるでしょう。民族間、国家間の敵意と争いは今日でもなお続き、多くの血が今日も流されています。身分の違い、男女の違いは差別となって深刻な問題となっている。自分自身を見ても他者との間の隔ての壁、敵意に気づかされます。積極的な攻撃に結びつかなくても、マザーテレサが愛の真逆と位置づけた無関心は、私たちの心の中に多くある。気づかずに隔ての壁を四方八方に建て上げ、自分勝手なルールで人を判断し、差別し、憎み、攻撃する。少しエペソ書で言われていることから広げすぎたかもしれません。しかし神を愛し人を愛するように、交わりの中で生きるようにと造られた本来の姿から堕落した人間は、愛することができなくなってしまったのです。愛がなければ、本当の平和はあり得ない。見せかけだけの平和なら、条約や討論、社交で取り繕えるかもしれません。しかしそれらはいつか、人間の持つ悪のゆえにほころびてしまうのです。

 

 決定的に愛することを失った私たちです。隔ての壁を建て上げ、いつしか一人きりになってしまう孤独な存在でした。しかし神は語られるのです。エペソ書2:13しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近いものとされたのです。何に近い者とされたのでしょうか。ここで、近い者とされたと言われるのは、異邦人がユダヤ人のようにされたというわけではありません。この13節は18節で言い換えられています。18節私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。近づくのは、父なる神に、であります。これを読むとき、イエス様が話された放蕩息子の話を思い出します。自分勝手にふるまって父のもとを飛び出した弟息子。父のそばにとどまりながらも、その愛の本質をみることがなかった兄息子。彼らはそれぞれに父のもとに帰り、ふところに飛び込まなければならない存在でした。ユダヤ人も異邦人も、すべてのものがこのお方の元に帰ることが求められているのです。自分の意思で帰るのではありません。キリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされた。鍵となるのはキリスト・イエスであります。四方八方を冷たい壁に囲まれ、自分自身ではもうどうしようもない孤独の中で死んでいた私たちを、かつては離れていたこの救い主なるお方が助けてくださるのです。私たちの元へと来てくださり、出会ってくださり、名前を呼んでくださり、手を引いて、御父のもとへと連れて行ってくださる。その血を流し、その肉が裂かれるほどに、実に死にまで従われるほどに愛してくださる方によって、私たちは父に近づくことができるのです。

 

 3.     神との平和、人との平和 

 さらに、14-16節キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。詳しくはまた次回読んでいきたいと思いますが、ここでキリストは、平和をもたらすお方とは言われていません。私たちの平和そのものであると言われているのです。これはイエス様の誕生のときから、いやそれ以前から預言されていたことであります。預言者イザヤは伝えます。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザヤ9:6平和とは何でしょうか。多くのことが語られていますが、表面的な平穏、争いの無い状態ではないことを聖書は教えます。ある箇所では平安と訳されてもいるこの「平和」。それは、私たちが父なる神の元に返ったとき、そのふところに抱きしめられたときの、安心といえるのではないでしょうか。一人きりの隔ての壁を打ちこわされ、私たちは神のみもとに連れ出された。その救いこそが、私たちの平和であります。私たちの平和であるイエスは、その地上の生涯の中で、何度も人々の傷をいやし、足りない者には分け与え、悲しむ者の傍らに立ち、そして言われました。「安心していきなさい」。これは、本日の箇所で何度も登場する平和と同じ言葉が使われています。直訳するならば、「平和のうち、平安のうちを、歩んで行きなさい。」2:17それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。イエス様の生涯はこのような平和を宣べ伝える生涯であります。神様によって救われること、その良い知らせを告げ知らせるお方です。そして、そのようにして父なる神と和解させられ救われた私たちは、キリストによって一つにされる。新しいひとりの人に造り上げられる。私たちの平和であるキリストのゆえに建て上げられる「新しいひとりの人」、それこそが私たちの教会なのです。

 

4.     平和をつくる者として 

 イエス様は山上の説教で言われました。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」言い換えるならば、この平和をつくるということは、神の子どもとされた者たちにしかできないのではないでしょうか。隔ての壁をキリストによって打ち壊され、私たちの平和であるキリストの上に建てられた教会だからこそ、できることがある。本当の平和を知り、その平和のうちを生きることが言われている私たちにしか、本当の平和を造り上げることはできないのです。神に近づけられた者として、和解を与えられたものとして、平和をつくるその務めを果たして行きたいと願います。世界は隔ての壁がいたるところで建て上げられ、そのゆえに、誰にも顧みられることのなく悲しみの中を歩む弱く小さい人々が多くいます。傷つく異邦人を横目に通り過ぎるユダヤ人になるのではなく、駆け寄って寄り添うイエス様の生き方に倣い、私たちはおかれているそれぞれの場所で、神の子として歩んでいきましょう。