人を真に生かすもの

川口昌英 牧師

❖エゼキエル37章1節~14節

❖中心聖句 「私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして、彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。……。」      エゼキエル37章10節

◆(序)この個所の背景

 ひからびた骨が生き返ったという不思議なことが記されている場面ですが、このところを理解するためにも、エゼキエルという預言者、又エゼキエル書の内容や特徴について把握しておいた方が分かりやすいと思います。

 ①まず、エゼキエルという人物ですが、ユダの国が混乱を極めていたとき「神は強めてくださる」と名付けられた、祭司の家庭に生まれ、そして1章にあるように、ユダのおもだった人々と共にバビロンに捕え移され、そしてその捕囚の地において、預言者として召された人物です。名前の通り、捕囚の民たちを励まし、強める働きをするために召された預言者です。 

②聖書の預言者の主要な働きは、予知、将来の出来事を予見することではなく、託された神の言葉、神からのメッセージを人々に伝えることでした。

 聖書に出ている預言者の殆どは、神の民と召されていながら、背いている民たちの現状や将来に対して厳しい警告を発し、悔い改めるように促す役割を担っていました。それゆえ、預言者の多くは、同胞から拒否され、攻撃され、憎まれ、無視されています。少し前の時代のエレミヤなどその典型です。多くの預言者は、実に厳しい状況に追い込まれています。

 そんな厳しい生涯を送った預言者が多い中で、エゼキエルの場合は、既に敵国バビロンによって裁きがなされ、又遠く移された後、捕囚の地において預言者として召されていますから、むしろ、民を励まし、将来の回復の希望を伝えるという役割を担っていました。

 しかし、その神が与える回復は、真の悔い改めがあって与えられることから、前半部分において、ユダの人々の不信、罪を指摘し、裁きを告げ、徹底的に悔い改めるように指摘します。それを告げたうえで、後半、神にある回復を約束しているのです。そのように、エゼキエル書は大きく、前半の神の民の罪を指摘し、裁きを告げているところと、後半の悔い改めた民に対して回復を告げているところからなっているのです。

 

③もう一つ理解しておくべきことがあります。それは、よく話すように、このエゼキエル書には、幻、視覚的な場面が多く出て来ることです。他の預言者の場合、主から、直接言葉を持って、民に語るべき内容が告げられているのですが、エゼキエルの場合、言葉によって示されるだけでなく、しばしば幻を持って、出来事の場面によって、主からメッセージが示されているのです。本日の個所もそんなエゼキエル書に特有な幻によって、主からのメッセージが伝えられている個所です。

 

◆(本論)ひからびた、枯れ果てた骨

 まず、幻の中で示されている、谷間に満ちているひからびた、枯れ果てた骨が何を意味しているのかですが、これらは12節で言うように、遠く異教の地に連れて来られて絶望しているユダの民たちのことです。

 主は、エゼキエルによって、このような、ひからびた、枯れ果てた骨であっても、主の息が吹き込まれるときに生き返るという幻を示し、主からの裁きを受け、捕囚の民となり、絶望している者たちに対し、悔い改め、新しい神の霊が注がれる時に、力に満ちた新しい存在として生まれ変わることを告げているのです。それはただの人間的回復を告げているのだけでなく、神の霊、愛が注がれて、人の本来の姿、神とともにある新しい喜びと希望と平安に満ちた姿に新しく生まれ変わること、真の神の民となることを告げているのです。徹底的な罪の指摘と裁きがなされ、悔改めた後に与えられる回復の預言でした。

 私は、この場面において言われている無数のひからびた骨が、主の言葉通り命じられた時に、音を立てて繋がり(7節)、そしてその上に筋がつき、肉が出て、皮膚がおおわれて人のかたちになり、(8節)、そして最後に息が吹き込まれて、生きた人となった(10節)という幻は、エゼキエルの時代だけでなく、いつの時代にも見られる人が本来のかたちを取り戻す姿ではないかと思うのです。三つの点において、共通すると思います。

①人がひからびた、枯れ果てた骨のようになる理由

 この時、民たちは、絶望していました。それは、彼らが遠く異教の地に捕え移されて、厳しい状況にあったからですが、しかし、厳密に言うと、それが真の理由ではありませんでした。主の厳しい裁きを受け、完全に見捨てられたと思っていたからです。

 柏木哲夫というクリスチャンの精神医学者がおられますが、自死について、厳しい状況、つらい境遇の中にあって、それを思いとどまることができるかどうかは、その人の内に本当の歯止めがあるか、どうかによると言っています。そして、人にとって、一番大事な又力強い歯止めは、「自分は生きているのではなく、生かされている存在」であることを知っていることだと言います。自分に命を与えた方がいること、その方によって目的を持って生かされていること、そして深く愛されていることを知るならば、厳しい状況になっても耐えることができると言うのです。ご承知のように、ナチスによるユダヤ人の強制収容所という絶望的な状況の中でも、生き残った者はこのことを信じていた人々と言われています。

 自分は創造主によって命が与えられ、生かされている、そして、人知をはるかに超えた愛で愛されていることを知っている人は幸いです。厳しい状況に追い込まれても神が共におられ、自分も深い愛で愛されていることを知っているからです。

②かたち(物質)だけでは、真の意味で生きているとは言えない。7節、8節(朗読)からそのように言うことができます。確かに、人のかたちにはなっていますが、中心に神の息、いのちがないのです。このことは、人はかたち、物質だけでは真の人生とは言えないことを示しています。何故なら、本来、神のかたちを持つ者(創世記1章26節~27節)であり、パンだけで生きるのではない存在(申命記8章3節)であるからです。表面的な、物(富、財産)知識、立場だけでは真の幸いを得ている、本当のいのちを持つ生き方とは言えないのです。

③枯れ果て、絶望しても神の息、霊によって生き返ることができる

 9節、10節、14節です。(朗読) 本当に喜びの場面です。絶望していた者の中心に神の息、人を人たらしめる神の霊、福音、神の愛が注がれる時に新しく生まれかわるのです。そしてこれには例外はありません。(Ⅱコリント5章17節)よく取り上げます瞬きの詩人と言われた水野源三さんは、非常に厳しい中、キリストにお会いしてから私の心は変わったと心からうたっています。

 

◆(終わりに)神の息が注がれている者は苦難の中でも生きる 

 今、生きる喜び、力がないのは、周りが悪いと状況、環境のせいにしていることはありませんか。勿論、無関係ではないでしょう。しかし、聖書は、真の理由は、一番大切なこと、いのちが与えられ、生かされ、そして深く愛されていることを受けとめていないことと言います。本質においては、今日、見て来ました旧約の民も現代の私たちも何ら変わりません。神の息、神の愛が注がれることによって人は立つのです。人の本当の強さは苦難の日に分かります。神の息、愛を注がれている人はその中でも失望せず、なすべきことが示され、行うことができるのです。この神の息、豊かな愛に満たされ、そして新しい人生を送っていただきたいのです。それは、何があっても決して奪われることがない希望が与えられている人生だからです。主の招きに応えてください。