世界が変わっている

川口昌英牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙12章9節~21節

❖中心聖句 「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」          ローマ人への手紙12章11節~12節

❖説教の構成

◆(序) この個所について

①12章から始まるキリスト者としての生き方についての続きです。13章より具体的主題を取り上げていますが、本日の個所は、福音を知り、義とされた者にとって大切な「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」、隣人を自分のように愛することについて全般的事柄です。

②この個所において、まず気づくのは、著者パウロが人々と寄り添い、人々の霊性、霊的現状を見ながら、心を配って語っている姿です。これまでにも見て来ましたように、人は義とされても(義認)、主と似た者と変えられていく段階(聖化)にあり、決して終末において約束されている、完全にされた姿(栄化)を持つものではありません。パウロは、7章19節(朗読)で見たように、自身の経験から、救われても、決してすぐに真実の愛で隣人を愛するようになるのではないことを深く知っていましたから、他の人々に具体的生活を示す際にも丁寧に語るのです。

③もう一つ確認しておきたいことがあります。幾度も信仰の仲間について言われていますが、この個所は、元々、世に生きる姿勢について述べているところだということです。この理解は大切です。目が教会の内側にばかり向きがちなことから守ってくれるからです。

◆(本論)他の人はどうかではなく、神の愛を知った者として

①まず、大原則として、「愛には偽りがあってはなりません。」と言います。これは21節までのこの個所全体の中心です。日本語の聖書では分かりにくいのですが、新約聖書の元々の言語、ギリシャ語聖書では、ここで言う愛は、神の愛を表す時に用いられている、アガペーという言葉が使われています。この神の愛によって救われ、新しく生まれ変わった者として、全ての人に接する時、偽りがあってはならないと言うのです。

 偽りがないことは、義とされた者のあらゆる人間関係の基本です。しかし、これは完全であるという意味ではありません。キリスト者の愛は完全であるべきなのに、現実は自分の愛も、廻りの人の愛も足りない、だからだめだと言う人がいますが、ここでいうのは、完全さを求めているのではなく、未熟でも弱くても、偽りがあってはならないことです。偽りを普通とする悪、神を知らない者と同じ考えではなく、善、神が示された考えに親しむことが大切なのです。

②続いて10節から13節において、兄弟愛、信仰の仲間との関係について語ります。「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。」と言います。(同信の友との関係が全ての人間関係を支えるからです。)自分だけが戦い、労苦しているのでなく、信仰の兄姉たちも遣わされている場において、主とともに生き、証し人として立って行こうとしていることを認め、尊敬し、励まされなさいと言うのです。

 そのように信仰の友と深い交わりを持ちながら、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」(11節、12節)と言います。救われて、価値観、支配原理が異なっている世に遣わされている者として、人生を変えて下さった主を中心として歩みなさいというのです。具体的にどういう姿でしょうか。

 中心である霊に燃えるということについて、一つの例を用いてお話したいと思います。ある時、教会のワゴン車で走っている時にエンジンに問題がありますという警告ランプがつきました。調べてもらうとエンジン本体に何かの支障があり、エンジンオイルが異常に減るという、時折り報告されている事例ということで一週間ほどかけて、エンジン全体を分解し、修理がなされたのです。その修理の後から少し感じていた弱さが全くなくなり、非常に調子よくなったのです。

外見では全く同じであり、普通に走ることも出来ていたのです。しかし、中心であるエンジンに問題があり、力強さがなくなっていたのです。

 霊に燃えるとは、車で言うならば中心であるエンジン、主からの愛、主への愛にいつの間にか、問題が忍び込んでいることに対し、中心部分を解体し、悪い部分を修理し、新しくし、初めの愛に立つことです。そして、その中心を新しくすることによって、主に仕え、どのような時にも主が与えてくださっている希望によって、いつも喜び、患難に耐え、いつでもあらゆる事柄について祈って歩みなさいと勧められているのです。また互いの必要のために助け、旅人、特に福音宣教のために旅をしている人々を暖かくもてなしなさいと言うのです。いつも主の民としての意識を持ち、生きなさいと勧めるのです。

③続いて14節から21節までにおいて、あらゆる人々との関係について語ります。長い個所ですが、言われていることは二つに要約することができます。一つは他の人と心を一つにすることです。他人事ということばがありますが、主の十字架によって義とされ、神との平和が与えられ、御霊が与えられ、神の子とされたキリスト者は、そういうこの世の神を知らない人々のような考えではなく、(人生の真理を求める)「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい、互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ、知者などと思ってはいけません。」(15節、16節)と言うのです。

 立場や所属によって人と接するのではなく、存在として人と接し、真摯に受けとめることです。こういった例として、私は、1910年の韓国併合の時の内村鑑三の姿を思い起こしました。国中が、キリスト教会の殆どもそれを歓迎した中で、韓国から来ていたクリスチャンたちとの交流を通して、彼らの苦しみを受けとめて、主が全てをご覧になり、裁かれるだろうと共に主を仰いでいた姿です。これは簡単なことではありません。キリストにある者としての姿勢が本当に身についていたゆえに出来たことです。

 もう一つは、怒りを感じることがあっても自分で報復しない、復讐しない、神に委ねるということです。(14節、17節~21節) 迫害する者を祝福し、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことをはかり、自分に関する限り、すべての人と平和を保ち、自分で復讐せず、神の怒りにまかせなさい、悪に負けてはいけません、かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさいと言うのです。真に神を恐れている姿です。これらから伝わって来ますのは、全てを裁く方がおられるから、すべてを委ねて、罪が贖われ、神の子とされた豊かな相続人として、その祝福を表す生き方をしなさいという勧めです。福音を知るまでは考えられない生き方です。1956年に南米エクアドル、マアカ族の地にパラシュートで降り立った5人の宣教師が警戒したそこの部族に殺害されるという事件がありました。しかし、何とその奥さんや子どもたちが宣教師としてそこに行き、殺害された者や自分たちが来た意味を伝えました。創造主がおられること、そして人の罪のために救い主を送ってくださり、贖いを成し遂げてくださり、天の希望が与えられていることを伝えました。やがて、福音が頑くだったその部族の人々に入り、多くの人が主を信じ、1970年に行われたベルリン伝道会議に出席し、出席者にその証しをしたのです。

 

◆(終わりに)よく話しますように、パウロ本人は元々、ここで言うような者ではなかったと思われます。むしろ、他人に対して厳しい姿勢を持っていたと思われるのです。しかしそのパウロが、心を一つにするだけでなく、善を持って悪に打ち勝ちなさいと言うのです。大きな変化です。世界観、価値観が全く変わったからです。自分が正しい、他の人は間違っているという世界観から、全ての人は、神の創造によって生かされている愛すべき存在とあるという考えに変わったのです。又今までは悪に対して、怒り、復讐をしようとしたことから、神が裁きをされるという考えに変わったのです。その変化は、真に人生を豊かなものにしたのです。それゆえ人々に勧めるのです。