慎み深い考え

説教 川口昌英牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙12章3節~8節

❖中心聖句 「……だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考えをしなさい。」

                     ローマ人への手紙12章3節b~c

❖説教の構成

◆(序)この個所について

①1節~2節で、この世での生きる方向、目的について語った後、パウロはキリスト者として生きる姿勢、態度について語ります。

 このところを見ると、(第一コリント12章のように) 教会の一体性や、それぞれの賜物を用いて教会で奉仕することを説いている感がありますが、文脈的にはこの世での生き方についてです。

 すなわち、支配原理、価値観が違うこの世ですが、世においても主に仕えるような意識、姿勢が大切であると言うのです。信仰生活とこの世での生き方は、性質が違う別々のことではないと言うのです。川がどれだけ広がっていても全ては源流から流れているように、主に対する姿勢が中心であり、全てに及ぶと言うのです。その姿勢を持ち続ける時に、この世において神の栄光を表すことができるというのです。いつでも、どこでもその生き方を変える必要がないと言うのです。

 この世において生きることについて、教会に属しているという思い、教会の一員としての意識を持ち、信仰告白をしている人々との一体性を持って行動せよと言われていることに注目させられます。 信仰生活、教会生活とこの世での生活、生き方を全く別のものと考え、この世において生きるためには、特別な考え方をしないといけないと思うことに対して、そうではないと言われているからです。

 2節で現実にこの世を覆っている原理、価値観と義とされた者に与えられている原理、価値観が違っていると明らかにされたうえで、生き方、意識、姿勢においては同じと言われていますから非常に注目すべきなのです。

②具体的なことをお話したら分かりやすいと思います。これは私も、説教の中で聞いたことですが、ある牧師が列車に乗っていたら、後ろの座席の話が聞こえて来たそうです。会社にいる二人のクリスチャンについての話でした。とても興味を持って聞いていたら、一方が他方にA君は堅くて融通がきかず、日頃の付き合いも悪い、それに比べてB君は柔軟で、とても付き合いが良い、Bの方が気楽だね、でも本当に人間関係でも仕事でも信頼できるのはAだよね、と言ったら、もう一人の人も僕もそう思うと言ったとのことでした。

 三浦綾子さんの小説に大工の棟梁をモデルにした小説があります。「岩に立つ」という題名だったと思いますが、この主人公は、元々、曲がったことが嫌いな人でしたが、クリスチャンになり、いよいよその生き方が鮮明になった人でした。大工の仕事をしていましたが、前に注文した人の知人が自分も家を建てる時に、その人に依頼したケースが非常に多くあったそうです。というのは、他の業者が見えないところでは雑に、又品質が落ちた材料を使うことが多かったのですが、その人はクリスチャンとして神の栄光を表すという思いで仕事をしていましたから、見える所、見えない所、関係なく丁寧な仕事をしていたのです。当然、利益も少なくなるのですが、決して自分の姿勢を変えることはなかったのです。そういう仕事が人々の評判になったのです。

 パウロがここで言っているのは、そういうことだと思います。では、中身を見て行きます。

 

◆(本論)具体的な姿

①まず、パウロは「思うべき限度を超えて思い上がってはいけない」と言います。義とされた者として、世、自分が今いる場においてもという意味です。

 思うべき限度とは、自分がそこに置かれている意味、主の栄光に仕えるという目的を超えてという意味です。召されてそこに遣わされている者として主の栄光を表すという目的を超えて、 自分の能力を誇ったり、栄誉をひけらかすようなことをしないということです。

 それは、愛想よくすることではありません。そういう表面的なことではなく、先ほどの棟梁のように、この世的な価値のためではなく、主が与えられた賜物によって、自分の務めと真摯に取り組み、人々の信頼を得るような働き方をすることです。そして良い成果をあげ、結果を残しても高ぶらないことです。自分だから出来たのだ、自分のやり方が良かったのだと誇らないことです。

 聖書は対照的な二人の王の姿を記しています。一人は有名なイスラエル二代目の王、ダビデ王です。国が安定し、栄えた時に、彼は主を心から仰ぎ、礼拝しています。(第Ⅱサムエル8章18節~30節) もう一人は近隣の国々を征服した強大なバビロンの王、ネブカデネザル王です。彼は絶頂時にこう言っています。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とする為に、又、私の威光を輝かす為に、私が建てたものではないか。」(ダニエル4章30節) 全部、自分でやった。自分の力だと誇り、高ぶっているのです。

 

②パウロは、こうして良い結果を残しても高ぶることを戒め「いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて慎み深い考え方をしなさい。」義とされた者として、目に見えない大きな教会に属している「互いに各器官」である意識を持ち、「与えられた恵みに従って」、それぞれの賜物を用いて、主のしもべにふさわしく歩みなさいと言うのです。

 キリスト者は、いつでもどこにおいても、キリストのからだである教会に属し、そして同時にこの世に遣わされているのであり、それゆえ世においても、キリストの体に属している者としてそれぞれの賜物に従って神の栄光を表しなさいというのです。

 預言の賜物であれば、人を恐れないで神の真理を伝え、奉仕の賜物であれば、主に仕えるように人々に仕え、教える賜物であれば、人々に真理を伝え、勧める人であれば、神にある生き方を示し、分け与える人であるならば、倒れている隣人を助けるために惜しまずに与え、指導する人であるなら、主のすばらしさを証しし、慈善を行う人であるなら、会ったことがない人でも苦しんでいる人のために自分に与えられているものをささげなさいと言うのです。

 これは職業の種類について言っているのではありません。どのような立場、職業であってもそれぞれに与えられている賜物によって主の栄光を表しなさいというのです。私は、どんな仕事、立場であっても何のために、それを行っているかによって、遣わされている場においての歩みが正反対になると思います。例えば、学校の先生、この国においては状況、立場はとても難しいものがありますが、主が賜物を与え、子どもたちに対して、大事な役割を果たすようにそこに遣わしてくださっていることを意識しているかどうかで、働く意味は大きく異なると思います。その他、どのような仕事、又立場についても同じことが言えます。

 

◆(終わりに)みことばに教会の内と外という区別はない

 多くの人が誤解していますが、みことばは、信仰生活とこの世での生活、生き方を対立的なものとしていません。確かに支配している原理は違いますが、キリスト者の姿勢、生き方はどこでも同じと言います。実際には、労苦があり、それゆえ賢く、知恵を用いなければなりませんが、生き方の中心そのものを変えてはならないのです。主が言われる「蛇のように聡く、鳩のように素直に」です。人は表面ばかり見ますから、実際にそういう生き方をしてもキリスト者の真意は伝わらないことが多いでしょう。しかし、そのような姿勢は深く、確かに主の栄光を現すのです。人々は見ていないようで、実はよく見ているのです。そして自分にないものを敏感に感じるのです。何よりも主ご自身が見ておられるのです。どこにあっても恵みを受けた者として歩みましょう。