神の作品

説教:山口 契伝道師

■聖書:エペソ人への手紙2:8-10 

■中心聖句:あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 

1.     はじめに 

 先週の日曜日、礼拝にはじめて足を運んでくれた青年がいました。彼は紹介の際、「友だちに誘われて来たが、でもイエス様が導いてくれたんだと思う」と、率直に話しをしてくれました。私はそれを聞き、本当にそのとおりだなぁと思われました。目に見えるかたち、自分の意識では、自分で選択して、自分で決断して、教会に来た。神様を信じた。しかし、それらのすべての中に神様が働いてくださる。イエス様が私たちの手を取って導いてくださるのです。本日の箇所もまさにそのことを教えています。本日の箇所を見てまいりましょう。

2.     恵みのゆえに、信仰による救い 

 89節をお読みします。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。有名な箇所ですので、暗唱されている方も多いのではないでしょうか。ある神学者はここに救いの教えのすべてが込められているとさえ言います。私たちの救いは「恵みのゆえに、信仰によって」与えられるものである。これはすでに5節で挿入句として登場していました。あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。前回この箇所のお話をした時には、この手紙を書いているパウロは、このただ恵みによる救い、自分の力でもがいて努力して獲得するのではなくただ一方的に与えられる恵みを知り、喜びが溢れてしまったのではないかとお話ししました。自分の死んでいた姿、自力ではどうしようもない罪に打ちひしがれる者の大きな喜びが爆発している。それを本日の箇所で改めて語っているのです。5節挿入句の「恵みによる」と8節「恵みのゆえに」とは、ほぼ同じ言葉が使われています。が、よくよく見ていきますと、8節での「恵み」には定冠詞がつき、特定の恵み、特別な恵みを表わしていることに気づきます。それは7節で言われている「あとに来る世々において、明らかに示されるこのすぐれて豊かな恵み」であり、罪に死んでいた私たちを生かし、よみがえらせ、キリストとともに天のところに座らせてくださった、その恵みであります。すなわち「救い」という恵みであります。自分ではどうすることもできない私に延ばされたその手が恵みなのです。この神様の恵みは、旧約聖書から通して聖書の全体で明らかにされている神様の性質の一つです。旧約聖書での恵みを表わすヘブル語を調べてみますと、それは「膝を屈める」という意味をもっているようです。権威あるお方がその膝を屈め、倒れている弱い者、小さい者に手を差し伸べる、というところから、この「恵み」の言葉ができたと考えられています。前回の「あわれみ」もそうですが、受けるに価しない私たちにも神様は目を留め、救いの手を差し伸べてくださる。それこそが恵みであるのです。

 

 このように、救われた理由、原因としての恵みが挙げられている。この救いの恵みの主語は、これまで確認したようにいつも神様です。死んでいた人間や、その人間に造られたもの、すべての被造物とは異なるお方だけが、手を伸ばすことができる。恵みを注ぐことができるのです。と同時に、本日の箇所では「信仰によって」、別の訳では「信仰を通して」という言葉がおかれています。「ゆえに」と「よって」、日本語では違いは分かりづらいのですが、それぞれ英語の訳では、前者は原因や源を表わすby、後者は手段を表わすthroughを用いているようです。イメージで言うならば、旅人ののどの渇きをいやしうるおす泉がこんこんと湧き出ている。この泉が恵みです。そして、この泉の水を汲む器が信仰であると言われている。注がれる恵みをただただ浴びるだけ掛け流しのままでいるではなく、受け取るものが信仰なのです。それがここでの「めぐみのゆえに、信仰によって救われたのです」と言われていることのイメージです。これはどちらもなくてはならない。注がれる恵み、延ばされる手がなければ当然救いはあり得ませんし、その注がれる恵み、延ばされる手に応える信仰がなければやはり救いはないのです。では信仰とは何でしょうか。時に信仰は自分自身が獲得するものだと考える人がいます。信仰を自分自身の功績とし、救いは神の恵みと人間の信仰によって、すなわち神と人との共同の働きで得るものであるという教えがあるのです。しかしパウロは言うのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。確かに、ある意味で恵みに応える信仰、人間の側の応答は、無くてはならないものであるといえるでしょう。しかし、それさえも「神からの賜物」であると言うのです。初めから神に導かれ、神の愛とその恵みを知っていたイスラエルの人々でさえ、神を離れ自分かってに生きることを求めていました。ましてや、神を知らずにその生涯を送っている多くの人々、私たちにとって、真の神を求めることも、自分を呼ぶその声に耳を傾けることも、その延ばされる手に応えることもできないのです。それが霊的に死んでいるすべての人間の姿です。そんな存在に手を伸ばし続けるだけでなく、その手を握り返すような信仰を与える。降り注がれる恵みをそのままにするだけでなく、その恵みを受け取りうるおすようにさせてくださる信仰を与えてくださる。それが私たちの信じる神様なのです。

 

 先ほども少し申し上げましたが、この信仰を人間の側の業としてとらえるということは多くあることです。だからこそパウロは「恵みのゆえの信仰による救い」を伝えた後、さらに9節で行いによるのではありません。だれも誇ることの無いためです。行いではないことを強調しているのです。しかし実は、この手紙を書くパウロこそ、かつてそのような行いに集中する人物の代表のような人物でした。彼だけでなく、当時の律法学者たちは「いかに良く生きるのか」、「いかに良い行いを重ねるか」ということに専念していたのでした。それによって救われるのだとしている彼らにとって、それは結果として律法を守らないために救いへ至らない者、即ち「罪人」を裁くことになる。膝を屈め、手を伸ばされるお方の姿とはおよそ似ても似つかぬことをしていたのです。そしてそれは一般的な考え方であったのです。一カ所イエス様とある青年とのやり取りを見てみましょう。

 

■【金持ち青年の話 マルコの福音書10:17-30、(ルカ18:18-27、マタイ19:16-27)】 

 ひとりの人、別の箇所では役人、また青年であると書かれています。この一人の人はイエス様に尋ねます。v17「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたら良いでしょうか。」

彼はまぎれも無い求道者であり、聴くべき人を知っていた、ということができるでしょう。立場ある人物であるにもかかわらず、ひざまずいて教えを請うているのです。しかし、彼は救いがどのように与えられるかということについて重大な勘違いをしていたのです。「私は何をしたら良いでしょうか。」彼は自分の努力で永遠のいのちを受け継ぐことができると考えていたのです。これは多くの宗教にも共通するでしょう。徹底的な苦行修行を重ね、自身を痛めつけ、あるいは神秘的な体験を求める。呪文を唱えることで、自身の欲を捨てることで、救われることを目指す。宗教的な規律を守り、道徳的なことを行っていれば救われると考えている人は多いのです。イエス様の前にひざまずいたこの青年もそのような一人でした。今の状況は何かが間違っている、苦しみや悲しみ、むなしさだけがある。だから救いを求めている。しかし、そこへ至る道を知らないのです。彼は与えられている、それを守れば救われると言われていた律法を守っていました。v19,20「…戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」イエス様が示されたのは、十戒の後半部分の律法です。それに対して青年は小さいころから守っていると言う。おそらくは誇らしげな顔、自負心をもっての言葉であると思われます。しかしそのような自負、自分を誇る気持ちは続くイエス様の言葉で打ち砕かれるのでした。v21-22…「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その上で、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産をもっていたからである。三つのことが言われています。持ち物を売って貧しい人に与えるということ、天に宝を積むこと、そしてイエス様について来なさいということ。イエス様はこの金持ちが何に依存しているかを知っておられたために、それを捨てるように言い、本当の従うべきお方を示されたのでした。ここだけ読むと、やはり行いによって救われるのではないかと思われるかもしれません。すべてを捨てて神に従うことで救われるのか。しかし続く言葉はどうでしょうか。金持ちが神の国に入ることは難しいとの言葉に言われるイエス様に対して弟子たちは驚きます。v26弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」金持ちであり律法も守っている青年は、弟子たちだけでなく多くの人々にとって好ましい姿に映りました。救われるのはこのような立派な人物だろうとだれもが疑わなかった。イエス様のそばにいた弟子たちでさえそうだったのです。彼がだめならだれが救われるのだろうか。イエス様はその驚きに対して言われるのです。v27イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」救いに関して、自分の依存している物から離れ、従うべき御方に従うということ、それは人にはできないことであるとはっきり言われているのです。このイエス様の言葉を、また本日のエペソ書でのみことばを覚えるとき、救いはただ神にのみあるという事実だけが残るのであります。と同時に、イエス様がこの青年に向けられたまなざしも覚えておきましょう。マルコ10:21イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。いつくしんで、とはアガペーの動詞、アガパオー、すなわち「愛した」という言葉です。イエス様には、これから話そうとすることが人にはできない、神だけが可能にされることを知っていました。あるいはその言葉によってこの青年が悲しみ、離れて行くことも知っていた。これは時ではなかったとしか言いようがないものであります。それをすべてご存じの上で、しかし愛しておられるのです。この人は無理だからとしてあきらめるのではない。そのようないつくしみがこのまなざしには込められていると思うのです。

 

 誇る者はただ主を誇れ」というみことばがあります。それは、この「恵みのゆえに、信仰によって」与えられる救いを知るとき、つまり自分自身が砕かれてはじめてできるものであると言えるでしょう。そしてそのような溢れるほどの恵みを、与えられた信仰によって受け止める者の告白が続いています。

 

3.     神の作品 

 エペソ人への手紙2:10私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。私たちは神の作品である。別の訳では、私たちは神の芸術品である、傑作であるなど、さまざまな訳がなされています。しかしいずれにしても造られた者、それもキリスト・イエスにあって造られたものであると教えているのです。神の作品、聖書中ここにしか登場しない表現ですが、これを聴いて嬉しい気持ちになるのは私だけでしょうか。私の弟は絵を描く人でして、二年間この金沢でいっしょに生活していました。美大生との生活というのはなかなか大変なものでしたが、しかし彼が取り組んでいる絵に対して真剣に向き合っている様子、時に苦しみもがきながらも、一筆一筆いとおしそうに筆を入れていたことを覚えています。その木枠を造る時から始まり、布をはり、筆を走らせ、色を重ね、重そうな大きな絵を抱えて美大への坂を上って行く。そのイメージがあるからでしょうか、この「神の作品」という表現には、制作者である神様の深い愛を感じるのです。絵画だけではなく、音楽でもそうでしょう。作曲家は和音の一つ一つを計算し、自身の喜びや悲しみといった感情を表現し、多くの人の情操を刺激します。ましてや、です。すべての物を作られた神様は天地創造の際、6日間の制作活動の終わりに出来上がったすべての作品を見て、「それは非常に良かった」と言われるのです。現にこのエペソ書210節で造られたという言葉は、新約中で15カ所、そのうち12カ所で創世記、天地創造に関わる言葉として用いられており、例外の三カ所は、キリストにある新しい創造、すなわち新しいいのちが与えられると言う「私たちの救い」に関わる箇所で用いられているのであります。本日の箇所もその一つであります。「恵みのゆえに、信仰によって救われた」私たちは、神の作品として、新しく造られた者である。言い換えるならば、天地創造と比べてなんら遜色ない事柄が救われた私たちのうちに起こっている、と言えるのです。しかも、天地創造がそうであったように、ひたすらに神様の一方的な働きの中で、この新しい創造の業は私たちに与えられているのです。私たちに与えられている救いというものを考えるとき、果たしてこのようなものとして受け止めているでしょうか。この夏は四名の方が主を告白し、「恵みのゆえ、信仰によって」救われましたが、その出来事の大きさを、そしてその感動を、すでに救われている私たちも共に覚えたい。そのように感じています。

 

4.     良い行いに歩むように 

 そして、キリスト・イエスにあって新しく造られた私たちには目的があります。「良い行い」というものがこの短い一節の中で三度も登場しています。造られたものには、造ったお方の目的がある。それが良い行いです。先ほどは私たちの救いが、先の天地創造と同じ「創造の業」であることを見ました。作者も同じ神様であります。であるならば、その創造の目的も根っこでは同じであると言えるでしょう。人間の「本来のあり方」が、新しい創造にも求められている。そのように考えるならば、ここで求められている「良い行い」とは、この本来のあり方から出て来るものであり、自分たちとは関係のない外から押し付けられた行動ではない、むしろ新しく造られた私たちの内から自然に出て来るものであるのです。すなわち、これは私たちにとって特別なものではなく、一番自然な、私たち本来の生き方である。イエス様につながれた枝は、新しいいのちに継がれて、自然と実を結ぶ。ヨハネ15章のぶどうの木の話では、とどまるということが肝心なのです。創造の頃、神との交わりの中に生きるように造られた人間は、神との関係の中に居続けるということが求められていることなのです。いや、その「良い行い」、主にとどまり、主との温かい関係の中に置かれることさえも、神が備えてくださる。救いもすべてが神の業でありました。そして救われた後の私たちに求められているあり方も、神が備えてくださる。私たちは安心してこの身をゆだねれば良いのです。神の作品として生きるとき、良い作品は、作者を映し出します。それを造った芸術家の心をあらわし、造った芸術家の栄光を現す。ここでの良い行いとは、一般的に言われているような道徳的によい行為のことではなく、神のみこころに従って生きること、神の子どもとして、すなわち神の栄光をあらわすことなのです。それはそれぞれの作品によって方法は異なるでしょう。一つとして同じ作品は無く、それぞれが神様の深い愛をもって造り出された、非常に良かったと言われる芸術品であるのです。芸術家はその作品が一番美しく見えるように、環境さえも整えます。光のあて方を調節し、周囲の色調に気を配る。私たちも今いる場所は偶然ではなく、神様の意図があっておかれている。その場所にあって、最も光り輝くことが期待されているし、そのように備えてくださっているのです。

 

 繰り返すようですが、ここでの良い行いは、決して外からの押しつけや義務のようなものではありません。神の作品として新しく造られた者の内側から自然な姿であります。「いつも喜んでいなさい」と言われるとき、それは自分の感情を殺して、何があってもニコニコしていなさいと言われているわけではない。どんなに苦難なとき、八方ふさがりのときにあっても、また大切なものを失って涙する時にも、しかし最後には喜ぶことのできる存在であるからこそ、言われているのです。本日の箇所でも、私たちは一方的な恵みによって救われた者であり、しかも神の作品として素晴らしいものとして造りかえられたものとして、生きるのです。救われたお方からはなれず、造られたお方の素晴らしさを映し出していく。それが私たち神の作品の生き方である。

 

5.     まとめ 

 

 今朝は、私たちに与えられている救いがどのようなものであるのかを改めてみて来ました。「恵みのゆえに、信仰によって」。それがどんなに特別なことであるのか。行いに救いの根拠を置きたがる私たちの考えを一気に打ち壊す恵みがここに示されているのです。そしてその救いは、私たちを神の作品として、キリストイエスにあって造るものである。この私たちに与えられた救いは、天と地が造られることと同じ大きな出来事であるのです。そしてそのように新しく造られた者として、神の作品として、造ってくださったお方の栄光を現す。道徳的な善行ではなく、私たちが造られた者として、すなわち造ってくださったお方を表わすものとして、生きることが求められていました。