この世と調子を合わせず

川口昌英 牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙12章2節 

 

❖中心聖句 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。         ローマ人への手紙 12章2節

 

❖説教の構成

◆(序)この個所について

①12章1節から、義とされたキリスト者としての生き方について、その根拠、目指す姿を確認したパウロは本日の2節において、具体的なこの世との関係について語ります。

 まず「この世と調子を合わせてはいけません。」と注意します。当然のように思うかも知れませんが、その意味するところは単純ではありません。救われた者は、罪の原理によって覆われたこの世から救いだされていますが、同時に新しく世に遣わされている、世から分離して生きているのではなく、なお罪の原理が支配するこの世にあって生きている、遣わされた者であることを示しているからです。

 この理解は大切です。あなたがたは義とされ、この世から救いだされ、神の国の住民とされたが、再び、この世に遣わされている者であることを明らかにしたうえで、この世と調子を合わせてはならない、世の原理に支配されてはならないと言っているからです。ただ、キリスト者であることを意識して頑張りなさいというのではなく、豊かな恵みを受けて新たにこの世に遣わされている者として、この世と調子を合わせてはならないと言うからです。 

②続いて、この世と調子を合わせず、神にある生き方をするために、「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と言います。

 この世を支配している原理、価値観、例えば、有益かどうか、役に立つかどうか、能力があるかどうか、強いかどうかに支配されるのではなく、神のみこころ(何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか) をわきまえ知る、惑わされず正しく知るために、心の一新によって自分を変えなさいと言うのです。ここで変えなさいと言われている動詞は、現在形、受動形、命令形です。心の一新によって、自分が変えられ続けなさいという意味です。神に喜ばれる生き方をするために、この世と調子を合わせず、惑わされずに神のみこころを正しく知り、行う者となるために自分自身が変えられ続けなさいと言うのです。詳しく見て参ります。

 

◆(本論) 義とされた者の世との関係

①この世と調子を合わせないとは、上記のようにこの世を支配している原理、価値観に支配されない、従わないという意味ですが、具体的にはどういう意味でしょう。

 8月15日は、日本の歴史が大きく変わった68年目の敗戦記念日でしたが、この日を境にして変わることが望まれたのは、全体主義のもと、内外に苦しみを与えた国の体制だけではありませんでした。日本のキリスト教も徹底的に悔改めるべきでした。(しかし、公に実際の悔い改めがなされたのは22年経った1967年、日本基督教団による告白であり、我々の日本同盟基督教団が戦前の歩みについて悔い改めを表明したのは1991年であった。)

 何故なら、日本のキリスト教は戦前、戦中、聖書に示されているような信仰、教会の姿から大きく逸れていたからです。明治初期に伝わって以来の、根本的にあった性質、国の体制と反しない限りの信仰という性質が強く、それゆえ常に体制の監視のもとに置かれていた日本のキリスト教でしたが、ただ国からの抑圧があったからだけでなく、むしろ教会の側から当時の国体、

国家神道に基づく絶対主義体制に沿うようなキリスト教形成を求めていたという過去があるのです。そしてそのような中で国の体制に従い、協力するような声明をいくつも出しています。

 

②その典型的姿は、国の指導のもと、成立していました「日本基督教団」(1941年)の第六部、九部の旧ホーリネス系教会の牧師96名が治安維持法違反の罪で一斉に検挙、投獄された時、当時の教団統理が、その迫害された牧師たちについて「今回の事件は比較的学的程度が低く且つ聖書神学的素養不十分の為、信仰と政治と国家というものを混同して考えた結果」と切り捨てていることに表れています。当時の日本教会の中心にいた人々が何を大事にしていたのか、この発言ははからずも示しています。(我々同盟教団の前身、日本同盟基督協会も第八部に属していました。)

   このような歴史を持ちながら、日本の教会は、戦後、宣教の自由が実現したならば過去を置き去りにして何十年も悔改めて来なかったのであり、そして今でも自分たちは主に従っていたけれども、当時の体制の中、やむを得なかったと被害者意識で発言するのです。勿論、全ての信仰者がそうであったと言うのではありません。矢内原忠雄のような聖書の信仰に立った無教会派の人々や教団に属していても主に従い通し、厳しい道を通った人もいるのです。けれども全体的には当時の国家体制、国家神道主義と共存するそういう、日本的キリスト教を目指していたのです。

 この世と調子を合わせるとは、この過去の歴史から分かるように、その時の状況、体制、支配原理に流される、同化するということであり、聖書の世界観(創造、堕落、贖い、終末~完全成就)を二の次にし、キリストの教会の一員とされている意識を失うことです。それは現代も同じです。

 

③そんな日本の教会に対し、ドイツにおいては民族、大地、歴史を重視するナチズムが国全体、国民意識、国家機関に浸透し、やがてドイツプロテスタント教会全体をも支配しようとした時、危機感を覚えた牧師たちによって牧師緊急同盟が結成され、告白教会が誕生し、ナチスが政権を握った翌年1934年に、教会と国家の関係等について六か条からなる有名なバルメン宣言を発表しています。確かに、ドイツ教会全体でもなく、又この後、当局側からの執拗な干渉により緊急同盟も幾度か分裂し、教会闘争もついえている感じがありますが、それでも本来の信仰、教会の姿を明確に表明している様子に感動します。次のように言います。「…聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神の唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける。」(第一条抜粋) 圧倒的な力をもって迫ってくる体制の中にあって、ただキリストにのみ従うと心からの信仰告白をしているのです。この世の原理、価値観ではなく、永遠を支配する神の言葉に従うとはっきり言うのです。激流の中で堂々と信仰告白をしているのです。厳しい状況に置かれてもこういう信仰に立った人々もいたのです。

 

◆(終わりに) 心の一新によって自分を変えるために

 この世と調子を合わせずということに重点を置き過ぎましたが、最後に神のみこころを知ることについて見て終わりにします。パウロは、それについて「…心の一新によって自分を変えなさい。」と言います。キリスト者として、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかを知ることができるように、いつも主の近くにいて、みことばに親しみ、教会の集会、交わりを大切にし、信仰者としての霊性が変えられ続けなさいと言うのです。自分で自分を変えよというのではありません。そうではなく、いつも主の近くにいて、霊的感受性が深まり、又整えられることによって神の御心が分かるようになりなさいというのです。改めて言うまでもない当たり前のことですが、主に従う者となるために、主の近くにいて自分が変えられ続けることが大切なのです。