福音と哲学の違い

❖川口昌英 牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙12章1節

❖中心聖句 そういうわけですから、兄弟たち。神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、霊的な礼拝です。             ローマ人への手紙12章1節 

 

❖説教の構成◆(序)新しい展開 本日は1節だけですが、大変重要な意味がある個所です。主にあって生きる全ての者の基盤を示しているからです。 ローマ書を大きく分けるならば、前半11章までの救いに関する教理、[罪の姿、選民の意味、律法の役割、義の実現、結果、義とされた霊的状態、神の導き、選民イスラエルの行末]と、後半の12章からのそれらをふまえての実践、具体的生活に対する指針の部分に分けることができます。

本日の個所は、その後半開始の、義とされた者に神にあって生きるように促す理由、根拠を示しているところです。 キリストにある者としての生き方を勧めるにあたって、まず神がなしてくださったことについての説明、確認を行い、そして具体的な行動を勧めているのは、このローマ書だけではありません。パウロの殆どの書簡において共通しています。パウロは、決していきなり具体的行動を指示していません。初めに、人は元々どのようなものであったのか、或は神が与えてくださったものはどのようでものであったのか、しかし、現実はどうしてこうなっているのか、それに対して神はどうされたのかを明らかにしたうえで、主題の行動をするように勧めているのです。 これはパウロの信仰経験が深く関わっていると思われます。周知のように、パウロは律法を守り行うことによって義とされることを信じていました。そのために懸命に律法の学び、行いと取り組んだのです。しかし、神に近づきたいと願えば願うほど、自分の罪深さを知らされ、主からの義の確信が与えられなかったのです。そんな苦しんでいた時に、特別に顕われてくださった復活のイエス様によって、十字架の死と復活が自分のためであったと知らされ、遂に義の確信、真の平安が与えられたのです。(使徒の働き22章、26章の証し参照) その時、与えられた確信は、これまでの考えを根底から覆すものでした。神の義のために一番大切なのは、神、恵みに対する砕かれた心による信仰だと分かったのです。この経験から、生き方について指示する前に、パウロは、まず人間の本来の姿、神が与えてくださった恵みについて語り、そして具体的な行動について指示をするのです。本日は、そのクリスチャンの具体的生活にとって重要な意味を持つ12章1節について詳しく見て参ります。


◆(本論)クリスチャンとしてしっかり生きるうえにおいて、知っておいて欲しいこと①まずパウロは「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と、クリスチャンとしての生活の土台、原動力は、先に与えられている神のあわれみ、恵みであることを確認します。これから伝えようとする現実社会における具体的な行動を支えるのは、神がすでに示されたあわれみであると言うのです。キリスト者としての生き方の土台、力は、自分を誇ったり、あきらめたりしていた者を最も深い犠牲を払って愛してくださった神のあわれみ、愛であることを伝えるのです。 私は、これは反対の考えに流れがちであった当時の信仰者だけなく、いつの時代の者にとっても非常に大切なことと考えています。何故なら、人はとかくそれとは違う考えをもちやすいからです。例えば私たちも、言えば通じる、理解できると思って、まだ信じていない家族や子ども、求めている人、又信仰から離れがちな人に教会に来ませんかとかしっかりして欲しいと言いますが本当に言われている意味を理解し、キリストにある者としての生き方が出来るのは、罪人であった自分を真に愛してくださった神の愛が分かってからなのです。それを知らない限り、いくら言われても行動は生まれようがないのです。考えれば当たり前のことですが、この当然のことを私たちは忘れやすいのです。そして自分の言うことに従わないと怒ったりして、サタンに付け入る隙を与えるのです。自分も本当に変えられたのは、主のあわれみが深く分かってからであることを思い起こし、聖霊が働き、心を開いてくださるように祈りながら接することが重要なのです。 ともかく、パウロはこの順序、まず罪人である私たちに対して神様の側があわれみを示してくださった、愛してくださったことを大切にすべきである、そしてその神のあわれみを知った者としてそれに応えるように語るのです。 同じようなことが言われている個所をとりあげますと、エペソ5章に集中的に出ています。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者になりなさい。」(1節) 「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。」(2節) 「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(8節) 又ピリピ1章27節a「ただ一つ。キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」お気づきのように全て、愛されたこと、きよくせられたこと、(神のもとに取り分けられたこと)、光の側に移されたこと、福音の恵みを受けたことが先にあるのです。そしてこれは聖書全体の原則なのです。 ②具体的行動の起点を明らかにするこの個所において、続いてパウロは「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」と恵みを受け、義とされたキリスト者としての生きる目標を示しています。この言葉もとても大切です。信仰生活とはどういうものであるのか、はっきりさせているからです。何となく暖かい人間になることでもなく、この世から信仰の世界に閉じこもることでもなく、「あなたがたのからだ」を、生き方ということです、「神に受け入れられる、聖い生きた供え物」、神に喜ばれる、特別に取り分けられた、腐敗していない、傷のないものとしてささげることだと言うのです。 これに関して主イエスが言われている個所があります。ルカ18章9節~14節(朗読) 主が言う神に受け入れられる、聖い、生きた供え物は人が考えるものとは違います。本当に自分の罪を知り、砕かれ、悔い改め、主の愛を深く感謝し、ただ主を仰ぎ、従うと祈っている人です。詩篇51篇16節~17節(朗読) 又、預言者もその意味を誤解してはならないと指摘しています。(イザヤ1章13節、58章5節~6節) 罪を悔改め、心から主を愛し、倒れ、傷ついている人と共に歩もうとする姿です。


◆(終わりに) 信仰生活を自己目的にする人々への注意 パウロは、具体的な信仰生活を指示するまとめとして「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言います。霊的という言葉は、合理的、理にかなっているという意味です。すなわち、神の御心にかなっているという意味です。何故、わざわざこういうことを言う必要があったのか、多くの人々が信仰生活や礼拝自体を自己目的化していたからです。信仰生活の形式、中でも礼拝の形式のみを重視しがちであったからです。普段の生活から離れた信仰生活、礼拝の思いから離れた礼拝形式の充実を考える人々です。信仰生活そのものが目的になっているのです。変なことを言うようですが、真のキリスト者は信仰生活を送ること自体を目的にしていません。主を恐れ、愛し、隣人を自分と同じように尊重する生き方を願うことが、結果として信仰生活になるのです。私は日本の教会の弱さの一つは、この信仰生活や礼拝が目的になっていることも関係あると考えています。大切なのは普段、日々の生活です。普段の生活が神のあわれみによって、神に受け入れられる、聖い、生きた備え物となり、御旨にかなった礼拝の生活となるように共に願いましょう。