制度よりも大切もの

説教 川口昌英牧師

聖書個所 第コリント720~24

中心聖句 奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。 第コリント722節 

説教の構成

◆()この個所について

 ここで言われている奴隷についての言及は、著者パウロがコリントの教会から寄せられたいくつかの質問に答えている一つです。現在の指導者たちから、信仰者として奴隷についてどのように考え、どのように教えたら良いのかと尋ねられたのです。

 最盛時、コリントの町には自由民が20万人、戦争で敗北して捕囚され、労働力として連れて来られたり、元々自由民であったが経済的に没落し、奴隷になった者が50万人いたとも言われています。奴隷についてどう考えるかは教会の切実な問題になっていたのです。

 古代ローマ社会における奴隷の状況は、時代において違っています。新約時代の少し前までは最も悲惨でした。それについて研究している学者は、その時代のローマの奴隷の苦しみに比べれば、近代のアフリカから強制的に連れて来られ、奴隷とされた者たちのほうがまだ苦痛が少ないとまで言っています。そんな過酷な時から見ると、新約聖書の中で奴隷について言われている時代は、待遇が緩和されています。信仰を持つことが許された奴隷もいました。しかし、基本的に奴隷であることの過酷さ、家畜と同じように主人の財産、所有物と看做されることは変わりませんでした。

 全ての人は神によって命が与えられ、全ての人が神の前に罪人であり、全ての人が御子の十字架の贖いを受け入れることによって救われるという、神との関係において全ての人が同じであると強く訴えている教会として、この奴隷を巡る問題は信仰、教会存立の根幹に関わる切実な問題であったのです。

◆(本論)パウロの応答が意味するもの

切実な質問に対するパウロの応答から感じられるのは、本質をしっかり見つめながら答えていることです。たしかにパウロは、奴隷制度は非人道的であり、撤廃すべきであるというような言い方はしていません。神の愛に立ち、神の愛を伝えるキリスト教会は、奴隷制を容認している社会に対し、その誤りを強く主張すべきと言っていないのです。内容を見ますと、時代の多くの人々と同じように、奴隷の存在、奴隷の現状を容認しているようにすら思えるのです。しかし、それは表面です。パウロが語っていることをよく見ますと、まるでダイナマイトのように、固い岩のような奴隷制の中心、本質を打ち砕くものであることが分かります。

 このように言います。「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。」(21) 奴隷であることにとらわれてはいけない、絶対視するなと言うのです。その理由として「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」(22) と言います。なにげなく読みすごしがちですが、ゆっくり考えますとこれは大変重い言葉です。この世の人々、ときにキリスト者も、人が現在持っている社会的立場を絶対視するが、主にあって召された者にはその立場より、もっと大事な面、人としての存在という意味があると語っているのです。

 その人として最も大切な面が、今、奴隷の立場に置かれていても、主を信じた者は既に神から祝福を受けているというのです。神の義が与えられるのは、自由民であろうと、奴隷であろうと関係がありません。自分の罪を認め、神から送られた救い主、贖い主を受け入れることだけです。そしてそれを受け入れる者は、存在そのものが、神のもとに迎えられているのです。

 

実際の例をとりあげてみます。パウロの手紙の主題ともなっていますオネシモという奴隷がいました。ピレモンへの手紙に出てくる奴隷です。主人であるピレモンのもとから、主人のものを盗んで逃亡し、ローマに逃げ込み、隠れて自由を得ようとしたが、どうしても平安を持てず、主人の知り合いであるパウロを思い起こし、獄中をたずね、救いを受け入れた人物です。

 オネシモは、 ピレモンが良い主人であったにせよ、 主人のもとにいた時は労働を行う一人の奴隷にすぎませんでした。その立場が彼の人生の全てであったのです。ところが、逃げ込んだローマにおいてパウロに会い、福音を聞き、救われた後は、立場的にはなお逃亡奴隷でしたが、存在として「奴隷以上の愛する兄弟」(ピレモン16)と思われるようになっているのです。立場よりも一人の存在としての面を見られるようになり、生きる意味そのものが変えられているのです。

 

このように神の義、救われた者は、人として生きる意味、生きる目的が根本から変えられていますから、たとえ奴隷であっても、今や、主にあって罪の支配から解放された自由人であり、そして反対に救われた自由人は、主に従う、主のしもべであると言うのです。

 詭弁と思う人がいるかも知れません。福音を信ずることは悪弊に対して、批判の目を閉ざさせ、結局、不正を容認し、継続させると言うのです。私も、聖書を読んだことがある人から非難され、考えさせられたことがあります。しかし、今は本日の個所を含め、聖書が奴隷について語っているところ(エペソ65~9節、コロサイ322~25節等)は、制度に対する反対だけでは実現できない奴隷制度の本質、根幹にあるものを打ち砕いていることが分かるようになりました。福音は何より大切な一人の人としての生きる意味、存在の意味を変え、人生に喜びと希望を与えるのです。それゆえ福音は、それぞれが持つ社会的立場が全てとする者には考えることができない、自由人と奴隷の垣根を乗り越えさせるのです。 

 制度機構の変革は、言うまでもなく大切ですが、限界があるのです。真の人間尊重は、創造主を認め、愛し、従うこと、隣人を自分と同じように愛することのうちにあるのです。このように福音を知る時、立場で人を見ようとはしなくなるのです。そうして人を所有物、財産としかみない奴隷制度の根幹を打ち砕き、実際の悪弊に対して立ち上がる力を与えるのです。

 

最後に、パウロは、「あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷になってはいけません。」(23) と奴隷問題についてのまとめをしています。ここでいうあなたがたとは、自由民、奴隷両方を含んでいます。社会的に自由民である者も、奴隷の立場にある者も、神の目には御子の尊い犠牲が払われて、罪と死の支配の中から贖いだされた者であり、全く同じである、永遠という次元においては全く同じであるという他の人が知り得ないことを知っている、それゆえにこの地上的な立場の違いを絶対視しないように言うのです。

 

◆(終わりに)しもべとしての意識を持ち続けたパウロ

 悔い改めをなし、再び主をあがめ、従うようになったコリントの教会に宛てた手紙(第二コリント)の中で、パウロは何度も自分を主のしもべと言っています。45節、64節、8節、1123(朗読) 等です。私は、これらのパウロの表明、まさに自分が実際の奴隷のように苦しみと蔑みに置かれていた中で、ただ主に仕えると言っていることのうちに奴隷制度を克服している姿があると思います。世の人々は、実際の制度が撤廃されない限り、そんな表明は意味がないと言います。しかし、生涯を振り返る時、幸いだったと感じるのは、主とともに歩んだことではないでしょうか。大事なのは立場ではなく、存在のあり方です。そしてこのことが本当に分かるなら、この核によって、世にある不正義、不平等のために声をあげる力が与えられるのです。廻り道のようですが、不平等を破る一番の力は福音なのです。一番大切なものを大事にしましょう。