もう一つの奥義

❖川口昌英 牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙11章25~36節

❖中心聖句 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

                          ローマ人への手紙11章36節

❖説教の構成

◆(序)この個所について

 イスラエルの今後について結論の部分です。パウロは、これまで述べて来たことを最終的に確認しています。時が来て、イスラエルがみな救われるのは神の奥義、隠されて来たけれども明らかにされた御心であり、また預言されていることであると言います。(25節~27節) 救いの御技について奥義という時、除外されていた異邦人もキリストによって救われることのみを思いがちですが (エペソ1章9節~10節、コロサイ1章26節~27節)、旧約時代から神の民とされ、用いられて来たイスラエルが完成されることももう一つの奥義だと言うのです。(なお、イスラエルがみな救われるとか完成するという意味は、イスラエルが一人残らずという意味ではなく、イスラエルに多い神との契約を重んじる人々の中に救いがなされるということです。)

 これはとても重要な指摘だと考えます。というのは、私たちは、旧新約聖書全体から、信仰による義、全ての民族に開かれている義が実現している今は、イスラエルの行末は重要ではないと考えるのですが、神のご計画ではそうではないとはっきり示されているからです。

 続いてパウロは、その理由について述べます。(28節~32節) 異邦人に救いが及ぶという神のご計画のゆえにイスラエルは今、神に敵対し、不従順になっていますが、元々、神の民として選ばれ、愛されている者であり、その彼らを選ばれた神の賜物と召命は変わることがないと言います。実際に彼らを選び、用いられて来た神は、現状は反対のようになっているけれども、ご自身の愛と真実のゆえに彼らを決して放っておかれることはない、必ず彼らに対する御心を実現されると言うのです。

 そして最後にそのようにされる神の知恵と知識の富、豊かさ、又すべてを支配しておられる神の偉大さに対して感嘆の思いを表し、ほめたたえています。(33節~36節)

◆(本論)すべてを支配される神

①まず、新しい恵みが実現したとしても、神は先に用いられた存在を放っておかれることはない、いったん示された神の賜物と召命は変わることがないことについてです。(25節~29節) 

 人間の愛とは違い、神の愛は不変です。多くの人々が神の厳しさに満ちているという印象を持っている旧約聖書においても、選ばれた者に対する無限、不変の神の愛が繰り返し言われているのです。有名なイザヤ54章8節、10節(朗読) 、エレミヤ31章3節~4節などです。

 そして、この不変の神の愛が最も鮮明に示されているのがユダの国もイスラエルの国も神に背いていた時代に語られたホセア書です。このホセア書の特徴は、不品行に走る女性を妻として迎えるように導かれ、その妻との関係、愛を通して神の愛を語っていることです。 

 次のようにはっきり言われています。「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き離すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。……わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」(ホセア11章8節~9節)

 どれだけ、イスラエルやユダの人々が神に背いても見捨てることができないというのです。神の賜物、神が与えてくださる恵みと召命、神が与えられた使命は変わることがない、何故ならその中心にある神の愛が不変であるからと言うのです。神の愛は人間の愛と異なり、相手の状態によって変化する条件の愛でないからです。創造主としての深い愛のゆえなのです。

 

②神はこのように本質として愛なる方ですが、けれども時に深い御心によって反対の振舞いをされることがあります。歴史的にもそうだったし、又今もあなたがたを突き放すようにしている、 言い換えれば、あなたがたに神に対して頑な姿勢をとるようにさせているのは、実はあなたがたに哀れみを示すため、愛を伝えるためだと言います。(30節~32節) 不思議な言い方ですが、神はご自身の愛によって、人とは違うことをなされると言うのです。

 不従順、頑さに閉じ込めるとは、中途半端に妥協されないということです。自分の罪に本当に気づかないならば、自分の姿に砕かれないならば、そして心から神を求めなければ、すなわち、その状態がいかに悲惨なものかに気づかなければ愛を示すことがないのです。自分の罪と罪がもたらすものがどんなに悲惨であるか気づいた時に真実な愛を知り、生きる力が与えられ、主と深く結びつき、ゆるぎのない繋がりを持つようになるためなのです。

 神が人に愛を示される方法は人の理解を超えています。人は、少しでも苦しい状況になった時、すぐにかけつけて力を与え、慰め、励ましてくれる見える愛を期待するのに対し、神の愛はすぐに分からないのです。罪、創造主である神に背き、考え、行動の中心が自分中心になっているからです。自分の罪に気づき、悔改める時に、既に注がれている神の愛が人の中心に届くのです。  

 「神は、すべての人をあわれもうとしてすべての人を不従順のうちに閉じ込められた…」(32節)とは、自分の罪に気づき、砕かれるようにという意味です。そしてそれに気がついて悔改めるならば救いの恵みに入れられるのです。こうして今は頑になっているイスラエルですが、いつの日か必ず、罪に気づいて砕かれ、主の救いにあずかる時が来るのです。

 

③パウロはこのように、人の救いに関するすべては、神の知恵と知識によるものであり、それは何と底知れず、深いことでしょうと言い、そして最後に、誰がどの順番で、どのように救われるのか、人は誰も知ることがない、というのは、すべてのことが、神から発し、神によってなり、神に至るからと言い、そしてこのような神に栄光がとこしえにありますように讃美をささげています。(33節~36節) 尚、36節は、頑なイスラエルが救われることについてだけでなく、実は1章から11章までのすべてのこと、神が与えてくださった義について、神がなしてくださっている救いの御技全体のことについて言われていると思います。神の民として選ばれたイスラエルが頑になったこと、時が満ちてただ信仰による義が与えられ、異邦人も救われるようになったこと、そしてやがてイスラエルも救われ、人に対する救いのご計画が成就することについてです。

   人は現象、起こっている状況のみを見て判断しがちです。確かに現象のみを見ると、神のご計画は途絶えたように見えます。しかし、例えそう見えたとしても、神のご計画は変わらないのです。すべてのことが神から発し、神によってなり、神に至るからです。

 

◆(終わりに) 一人ひとりの救いと信仰生活についても 

 ここで言われている「すべてのことは神から発し、神によってなり、神に至る…」ことは、選民であるイスラエルや異邦人の救いといった大きな事柄についてですが、個人の救いとその信仰の生涯についても全く同じと考えます。

 私たちがこうして主の福音を知り、救われたことは人間的なわざではありません。又その信仰の生涯は、神の導きによって力をいただいての歩みです。それらがあり、神にあって最後まで信仰生活を送り、神のもとに迎えられ、神の栄光を表すことができるのです。暗闇の中、湖のうえにおられる主に向かって、ペテロは湖の上を歩き始めましたが、しかし、たたずみながらペテロを見つめておられる主イエスから目を離し、吹き捲くる風や揺れ立つ大波を見たときに、湖に沈みかけたのです。すべてのことは神から発し、神によってなり、神に至るのです。全てをご覧になり、最善をなしたもう主(ローマ8章28節)から目を離さないで歩んで行こうではないでしょうか。