しかし、あわれみ豊かな神は

■説教 山口契伝道師

■聖書:エペソ人への手紙2:1-6v1-3

■中心聖句:エペソ人への手紙2:4-6

 

  1. はじめに 

■今日は1-6までを読んでいただいたが、特に前半、罪の話を中心に見ていき、次回後半の救いの場面を見ていく。救いの要ともいうべきものが、この「罪」の理解です。いま救いを求めてここに来られている方はもちろん、すでに救われている私たちもまた、これを覚える事は非常に重要なのです。「私は罪人である」この認識が、助けを求めるのにはなくてはならない。しかしこの認識は必ずしもすべての人がもっているわけではないのです。先ほどともに読み交わしました交読文19番、詩篇第51篇ですが、これは有名なダビデ王の賛美であります。大きな力、権力を持った偉大の王の、しかし神の御前でへりくだり、自らの罪を大胆に告白している姿です。これは容易な事とは言えません。本当に砕かれなければ、この告白にはいたらない。私たちは罪人である。改めてこの夕、この私たちを取り巻く罪がどれほど悲惨な者であるかを覚えたいと思います。

 

■いよいよ本日から二章に入っていきますが、まずは前回とのつながりを考えてみましょう。1章の終わり、パウロは心の目が開かれるようにと祈り、その目で見るべきものを指し示します。すなわち神の力がキリストのうちに最も大きく表わされているということです。それは具体的に、イエスの復活と昇天、そしてすべてのもののかしらとして立っておられるというところに表わされた「神の力」でありました。そしてそのキリスト、すべてのものの真の主、すべてのものが唯一従うべきお方としてのイエスキリストが、教会に与えられている、パウロはこのようにして一章を結ぶのであります。ではそれに続く2章は、と申しますと、先ほどまでのひかり輝く力強い様子とは一転、人間の現実、それも罪過と罪というおどろおどろしい言葉で始まり、死んでいたとさえ言われている。だからでしょうか、私たちの用いている新改訳聖書では訳出されていませんが、多くの日本語訳ではここに「さて」や「ところで」という言葉を補い、場面ががらりと入れ替わっていることを強調します。しかし、注意深く原文を読んでいきますと、これは明らかに1章の終わりを引き継ぐ接続詞を用いて始めているのです。何が言いたいかと言いますと、前章の栄光あふれる華々しい教会と、罪過と罪に死んでいたと言われるあなたがたは別の者ではなく、しっかりと堅く結びつけられるべきものである。すべてのものの上に立たれるお方をかしらとする教会は、かつては死んでいた者、生まれながらの御怒りの子らであるあなたがたによって建て上げられるのだと言っているのです。先のあの栄光あふれる教会を思いながらこの二章、かつてのあなたがたの姿がどのようであったのかを知るようにと言われている、そのように言う事もできるのです。では、そのように始まる本日の箇所を読んで参りましょう。

 

 2. 異邦人の罪、ユダヤ人の罪 

 もう一度、13節をお読みします。あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。この箇所は二つの人々についていわれているところであり、12節が「あなたがた」を呼ばれるエペソの人々、すなわち異邦人、対して3節「私たち」とはユダヤ人であります。この、パウロ自身を含む世界中のすべての人々が、かつてどのようであったのか、これをこの三節で凝縮して教えているのです。中でも1節は鋭く突き刺さります。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」、であった。有無をいわさず、一切の反論を寄せ付けない断定の形でいわれています。とても強い口調です。しかしいきなりこれをいわれて、ああ自分は死んでいた者だったと言える人が果たしてどれだけいるでしょうか。多くの人はそんな馬鹿なと一笑に付します。これは文学的な表現ではありません。婉曲的な比喩ではないし、死んでいたような者だった、と言われているのでもない。「死んでいた」と言うのです。しかし次の節には「歩んでいた」とある。この二つを説明するには、前章で見ましたパウロの祈りを思い出す必要があるのでしょう。彼の祈りは「心の目がはっきり見えるように」というものでした。そしてその目で見るようにと言われるのは、わたしたちの肉の目には見えないもの、信仰によって捉えるべき事柄です。この2章でもそのような視点をもって見るならば、ここでの死んでいた、とは私たちの霊的状態の事であるという事が分かるでしょう。1章で見上げた者は、すべてのものが従うべきお方、まことの主であるイエスキリストです。そしてこの章で見なければならないのは、多くの人は見る事のできない、信仰によってしか知る事のできない、しかし確かに私たちのうちに重くのしかかり支配していた「死」であるのです。

 

■霊的な死、とはなんでしょうか。聖書はそれを、神様との関係が絶たれてしまった事であると言います。どんなに勢いよく成長していく枝であっても、その幹を離れてはすぐに枯れてしまう。神からはなれるという事は死なのです。どんなに楽しそうに生きていても、どんなに充実し多くの人が成功と認める人生の中にいても、開かれた心の目、信仰の目、もう少し言うならば、すべてを造られた神様の目で見るなら、それは「死」以外の何ものでもない。わたしにとどまっていれば、わたしを離れては…といって、共にいるか否かを教えられたのはイエス様ですが、これは聖書全体の教えでもあるのです。神と共にいるところ、そこにはいのちがあり、神から離れたところ、そこには死しかないのです。

 

■エペソ書2;1からも、この「霊的な死」というものをよりはっきりと知る事ができます。ここで言われている「死」とは「自分の罪過と罪との中に」であるのです。罪過と罪の違いには多くの議論がなされていますし、それら一つ一つは興味深いものであります。旧約聖書、神様がささげるようにと命じられたささげものの規定にも、「罪のためのいけにえ」と「罪過のためのいえにえ」があるように、これらは区別されたものであり、それぞれあがなわれなければならないもの、赦されなければならないという事が分かります。しかし本日は、それぞれが持つ最も基本的な意味から、これらの中に「死んでいた」と言われる状態について考えていきましょう。前者は罪過、普段はあまり聞かない言葉ですが、これは「ただしい道を外れた」「道から脱落する」という意味をもっているようです。対して後者は罪、有名なハマルティアというギリシャ語ですが、「的外れ」を意味しています。すなわち、「道を外れる」ことと「的を外す」こと。本来の道を外れ、本来の的を外す、それがここで言われている「罪過と罪」なのです。本来の道と本来の的、それは私たちの創造のとき、神が言われた言葉に表されています。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」創造の業の冠と言われる、人の誕生です。神のかたちとして、神に似せて造られた私たち。それが本来の人の姿なのです。神と共に歩む事、神を見上げて生きる事、それが本来の道であり、本来の的であった。しかし、そこから外れてしまったのです。神と共に生きる道からはずれ、神を見上げて生きるという的から外れた。神から離れ、自分勝手に生きる、それがこの罪過と罪の表わす「死」なのです。だからこそ、人を愛する事ができず、神を愛する事ができない。どこまでも自己中心の姿がここには表わされているのでした。そして「死んでいる人」は、自力でそこから脱出する事はできないのです。どこまでも無力、ひたすらにそこに居続けるだけの存在です。霊的に死んでいる者は神を知らず、また神を知ろうもしません。それは自らが死んでいるなどとは思っていないから。肉の目でしか自分自身を捉える事ができていないからです。考えるだに恐ろしい、八方ふさがり、お先真っ暗、まさに絶望的なところ、それがかつて私たちがいたところなのであります。

 

■私はこの「罪過と罪の中に死んでいた者であった」という御言葉を思いめぐらすとき、特に自力ではどうする事もできない絶望というものを考えるとき、夜の海に一人浮かぶ自分の姿を思います。ある時は悠々と泳ぎ、時に目の前に来る大小の波にもまれながら、それなりの達成感を抱いて日々を生きている。しかし本当の行き先、本当に安らげるところは分からないままに漂うだけ。そんな情景です。辺りは暗く、目印となるものはない。自分で目標を定めてあそこまで行こうと思ったとしても、たどり着いたところも結局は海の中。もがいても、もがいても、結局はどこにも行けずに沈んでいってしまう。これはあくまで私が罪を思うときのイメージですが、そのような自力ではどうしようもない絶望が、この罪の中の死にはあるのではないでしょうか。人に助けを求めても、その人もまた罪の海の中にいる以上は助ける事ができない。海の中ではない、外からの助けが私たちにはどうしても必要なのです。ここで言われている「あなたがたは自分の罪過と罪の中で死んでいた者であった」、それは、このような自分の力が及ばないところでの現実なのです。もちろん多くの人はそのように見ません。自分の力でしっかりと立ち、生きていると感じている。成功を収め、満足の人生を歩み、一辺の悔いなしとばかり死んでいく人もいるでしょう。しかし、神の目から見たとき、それは自分の本当の姿を見る事ができていない、弱く小さな存在に過ぎないのです。

 

■私たちは誰しもがこのように、自分の力ではどうしようもない、本来いるべきではない場所に私たちはとどまり、うめいていた者であります。しかも、繰り返しになりますが、霊的に死んでいる者は、誰に助けを求めて良いのか、誰についていけば良いのか、さえ分からないのです。1節では霊的な死、神様と離れたところにあって死んでいたと言われているのに対して、2節では生物的ないのちはあることが分かります。しかし、そのようないのちはありながらも変わらずに罪の中にいる、神様と離れたところで生きる者たちの姿を描いているのが、この第二節であります。もう少し言いますと、1節の罪過と罪の中に死んでいた姿はかつて救われる前の私たち、神を知らず、自分の力で生きようとしていた姿でありますが、2節はかつてはもちろん、今でも私たちを取り巻く状況でもあるのです。そこでは、神からはなれる方向へと導き、まことの主ではない者に服従させようとする存在について言われています。もう一度二節をお読みします。そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。「あなたがた」と呼ばれる、エペソの人々をはじめとする異邦人たち。その人々が従っているものについて二つのものが挙げられています。一つは「この世の流れ」、もう一つは「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」であります。この二つも大きく見れば一つであり、「神ではない存在」であります。本来従うべき唯一のお方はまことの神であり、その力が最大限に表わされた121節、すべての名の上に高く置かれ、22節いっさいのものの上に立つかしらである、キリストです。このまことの主に従わず、この世の流れ、空中の権威を持つ支配者としての霊に従っているのだ、とパウロは言うのです。ここから分かる事は、私たちを取り巻く肉の現実には外から私たちを従わせようとする強い力が多くあるという事です。霊的に死に、神様からはなれたところを漂う私たちは、簡単にこの力に負け、これらの勢力に従ってしまいます。いや、神を知ったとしてもこれらの力は強力に押し迫って来るのです。多くの人々がこの流れの中に身を沈め、その激流に流され、ますます神から離れて行ってしまうのです。本来の道から離れ、本来の的から外れる罪過と罪の中の死へと私たちを追いやろうとする。これは創世記の堕落にまでさかのぼって、人間を誘惑する力です。蛇は人を惑わし、神から目をそらさせ、神のもとを離れさせました。その霊、悪霊と言って言いと思いますが、これとの戦いはいまだに続いているのであります。

 

 「神から離れさせようとする存在」が、私たちが救われた後にもクリスチャンを取り巻いているという事は聖書全体から知る事ができます。中でもエペソ書はその悪霊の力の強さに注意を促し、しかし堅く立って戦うようにと教える、戦いの書簡でもあります。パウロはこの手紙を閉じる最後の段に至って、より一層力強く語ります。6:10- 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かう事ができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいる諸々の悪霊に対するものです。…

 

 悪霊の力が強い事は言うまでもありませんが、この世の流れ、このことにも私たちは注意しなければならないのです。実に多くのクリスチャンがこの流れの中に信仰を失い、神から離れていきました。ある説教者はこれを「神から断絶した社会全体の価値観」と言い表しています。この世の価値観、それは多く聖書を否定し神を否定します。それは時に、そんな事が起こりうるのかと疑いたくなるほどの過ちを引き起こす。かつての教会がそうでした。「この世の常識」「この国の常識」そのような言葉で彩られた誘惑は、教会のいのちとも言うべきキリストを他の者に置き換えさせるほどに強いのです。いや、人はあくまでも弱く神から離れやすいと言うべきかもしれません。特に私たちは、この不安定な時代にあって、本当に従うべきお方を見上げていく事が切に求められています。声の大きなものに流されるのではなく、この世の大きな流れに飲み込まれるのではなく、サタンの甘い誘惑に惑わされるのではなく、ただ神にのみ聞き従う、それを求めていきたいとねがいます。これは、死んでいた者にはとてもできない信仰の歩みです。死んでいた者、すなわち、神から離れて生きる者は、やはりこの大きなうねりの中、ますます神から離れていくでしょう。流されている事も知らず、そればかりか嬉々としてそのうねりに埋没していく。それがここで描かれる罪人の姿なのです。

 

 さて、これまでパウロは、「あなたがたは」といって異邦人のかつての姿を語ってきました。しかし、3節では自分たち、神の選びの民として特別な使命を負ってきたユダヤ人についても、同じであるというのです。3節 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。先ほどの異邦人異教徒の過去の生活が、この世の流れ、霊の支配に振り回されていたという面から描かれたのに対して、唯一の神を知らされていた選民の過去は、自分自身の内なる欲望や意志による罪として描かれています。「自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い」というのは、ある意味で分かりやすいものでしょう。外からだけでなく、内側からの誘惑も多くある。私たちはそれをよく知っています。時にそれは自分が望んでいない罪さえ犯させます。何度悔い改めれば良いのだと思うほどに根強いこの罪の性質が、私にはしみ込んでいる。この手紙を記したパウロ自身が告白しています。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。私たちは全身が罪によっておかされてしまっている。きよいところなど全くない、カルヴァンはこれを全的堕落と呼んでいますが、まさに生まれながら御怒りを受けるべき子なのです。御怒りとは、人間の感情のような者ではありません、法的に正当な裁きを意味します。

 

 

3. 罪論 聖書が教える堕落と腐敗、その「悲惨」 

 自分の罪過と罪との中に死んでいた者にとって、神様に従う事はもちろん、神様を知る事さえもできませんでした。その目は閉ざされ耳はふさがれ、自分の状況に絶望的なほど盲目であり、助けを求めようにも誰に求めたらよいのか、求める事のできない状態です。まさに生まれながら御怒りを受けるべき子ら。生まれた時点で、すでに確定された滅びへと向かって歩みだすような存在、それが私たちなのです。私たちの所属する同盟基督教団の教憲、その第一条にはわたしたちの信仰告白が記されています。その中で、「すべての人は生まれながら罪と悲惨、死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為において罪ある者である。自分の努力によっては神に立ち返ることができず、永遠の滅びに至る。」とあるのは、まさにそのとおりであると言えるでしょう。まさに、この悲惨の中、私たちは死んでいた者であったのです。

 

4.「しかしあわれみ豊かな神は」 

 最初にもお話ししてきましたように、本日は特に13節、人間が罪の中に死んでいた者であり、生まれながらに御怒りを受ける存在であった、という事を集中してみてきました。当初はここで説教を終え、私たちがかつてどのようなところにいたのか、かつてどれほどの悲惨の中を歩んでいたのかに終始しようと思い備えてきました。それほどまでにこの罪を知るという事は大きな意味をもつのです。しかし、その備えを進める中、罪について考えれば考えるほど、ここだけで終える事はできないという事に気づかされたのです。詳しくは次回にゆっくり見ていきますが、4節からお読みします。46しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。本日の説教題にもしました「しかし憐れみ豊かな神は」で始まる、この4節以降、これまでの人間の罪、惨憺たる状況をすべてひっくり返すのが、このことばです。それはかつての罪、自分の力ではどうする事もできない絶望的な状況を知った私たちにとってどれほど慰めに満ち、どれほどの平安を与えてくれる事でしょう。自分の力ではどうする事もできない罪の中で死んでいた私たち、神にすがる事も、神を求める事も、神を知ろうとする事さえもできなかった私たち。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちに目を注いでくださり、救いを与え、新しいいのちを与えてくださる。5節、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、とは、先ほどの罪の中の死を知った私たちにとってなんと力強く響く御言葉でしょうか。確かにいまだにこの世の流れや悪霊との戦いは続きます。時にそれに破れ、傷つき、傷つけ、苦しみの中涙を流す事もある。けれども、死んでいた者にいのちが与えられ、流されるままにただ生きていた者は、ともに戦われる主を知ったのです。

 

5. まとめ 〜再び、罪を知るということ〜 

 ある説教者は「神を知ることがなければ、罪をほんとうに深く知る事はできない。しかしまた、罪を知る事がなければ、神を知る事ができない。」と言っています。私たちは今夕、私たちが以前どれほどの悲惨な中にいたのかを覚え、それが自力ではどうする事もできないほど重くのしかかっていたという事実を見ました。それは、私たちの救いを覚えるために、どうしても必要な事なのです。そして、かつての事と言って忘れていいものではありません。確かに私たちはいまだに弱さがある。内外からの誘惑に負け、人を傷つけ、神様を悲しませる事が多くある。しかし、もはや私たちは死んでいた者ではないのです。かつてふさがれていた目は開かれ、閉ざされていた耳は御救いの良き知らせを聞く事ができるようにとされたのです。自分の力ではどうする事もできなかった絶望の中にいた私たちに、しかしあわれみ豊かな神はのぞまれた。私たちの救いはそのようにもたらされたのです。私たちにもたらされた、当たり前ではない大きなあわれみゆえの恵みを覚え、新しい週の歩みを、喜びをもって、始めて参りましょう。