あわれみを受けた者として

❖説教 川口昌英牧師
❖聖書個所 ローマへの手紙11章13節~24節
❖中心聖句   「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」  ローマ人への手紙11章22節a

 

❖説教の構成
◆(序)この個所の意味
①頑なゆえに神の義を受けることがなかったイスラエルの人々について、神は完全に退けてしまったのではなく、やがて終わりの時にイスラエルを完成させてくださる、最終計画をなされる、そしてそれは全世界にすばらしいものをもたらすと語って来たパウロですが、ここにおいて異邦人の使徒として、異邦人側に注意すべきことを語ります。
 次のことを知るべきと言います。イスラエルが捨てられた意味、彼らが受け入れられることによって起こる恵みです。(13節~15節) 彼らが受け入れられることは、「死者の中から生き返ること」であると言います。人知を超えた出来事であり、罪の贖いの完成、完全証明であり、そして人間の歴史を変えたものという意味です。イスラエルが受け入れられることは、全世界にとって真の喜び、希望をもたらすというのです。そして、麦の初物、最初にとれる麦が聖ければ粉全体が聖い、また栄養を吸収し、木全体を支える根が聖ければ全ての枝も聖いと言い、神の民、イスラエルはやはり特別に選ばれた民であると言うのです。(16節)

②それゆえ、(救われた)異邦人であるあなたがたは、イスラエルの背いた者たちに対して誇ってはならない。(17節~18節) 御旨から言えば、異邦人であるあなたがたがイスラエルを支えて来たのではなく、イスラエルがあなたがたを支えて来たと明言します。あなたがたはイスラエルのある者たちが不信になり、退けられたのは自分たちが救われるためと思い、実際その通りですが、霊的に高ぶってはならないと言います。むしろ、神を恐れよと注意します。神は、太い枝を惜しまなかったとすれば、その枝によって支えられている枝も惜しまれないからと言います。
 このように、この個所は異邦人に対して、今度はあなたがたが高ぶってはならない、どの民に対しても変わることがない、神のいつくしみと厳しさを知るべきと言っているところです。

❖(本論)異邦人クリスチャンが知っておくべきこと
①私たちはともすれば、3章21節~25節(朗読)で見ましたように、新しい神の義が実現し、そしてその義は、代々隠されてきたが明らかになった神の御心である(コロサイ1章26節~27節) ことを知っているので、神の前にはイスラエルも異邦人も同じと思いがちですが、本日の個所においては必ずしもそうでないと言うのです。勿論、神の義、救いということについては同じですが、神の目から見るならばイスラエルはやはり特別な存在と言うのです。
 それは前述のように、イスラエルが受け入れられることが「死者の中から生き返ること」、人間の歴史を変える最も重要な出来事と言ったり、イスラエルを「初物」とか「根」「台木」或は「栽培種」と形容していることから理解できるのです。 

②何故、このように特別な存在とされ、特別な恵みを受け、導きを受けて来た民が、退けられ、異邦人があわれみを受けたのか、そして今度は、救われた異邦人に対してたかぶってはならないと厳しく注意するのでしょうか。その理由を考えることは、この個所を理解するうえにおいてとても大切と思います。
 それは結論から言うならば、信仰に立って生きることが中心にあるかどうかです。パウロは、イスラエルの民たちは、このことにおいて失敗したのであり、そして、義とされた異邦人は今後、これに注意すべきと言うのです。
③信仰に立って生きるとは具体的にどういうことでしょう。(聖書全体から)四つの点をあげることができます。一つは、今更という思いを持つかも知れませんが、創造主がおられることを本当に信じることです。二つ目は、罪を知る、特に自分が罪人であることに気づくことです。三つ目は、既に救い主が来られ、罪の贖いがなされたことを信じることです。そして、四番目に、救われた者として、世の価値観ではなく、神のことばである聖書に基づいて、言い換えれば終末意識を持って生きるということです。これらを受け入れ、信じ、生き方の中心にすることです。
 詳しく見て行きます。まず、創造主がおられることから全てを見ることです。この世界とその中にあるすべては神によって造られたのです。本来、全てのものが創造主によって目的を持って造られたのです。(創世記1章26節~30節) 目的、意味がない存在などないのです。このことが本当に分かるならば、虚無、空しいという思いは消え去ります。人はいつも比較し、人の間に強弱、優劣、有用、無用などの差を作りたがりますが、神はすべての存在はかけがえがないものとしてお造りになったのであり、永遠を支配したもう神の創造には失敗作はないのです。信仰に立って生きるとは、すべてのものを見る時、自分を見る時、神によって創造された、生かされている存在として見ることです。
 二番目は、罪の支配、力を深く知ることです。前述のように本来は良いものであるのに、現実は正反対になっています。生きる喜び、目的を持てず、また働くことが苦しみになり、人間関係も憎しみ、ねたみ、争いに満ちています。創世記3章に記されている出来事、人が創造主に背き、その罪の裁きを受けたからです。自由を求めたつもりで生きるうえにおいて最も大切な創造主との関係が壊れ、生きる喜び、目的を見失い、自分以外の存在の尊さを認められなくなっている姿です。信じて生きるとは、この罪の支配を深く知る、観念ではなく、事実として知ることです。
 第三は、けれどもそんな罪人、背き、さまざまな罪の実を結んでいる人のために、神の側が御子を与えてくださるという最も大きな犠牲を払い、罪を贖ってくださったことを知ることです。ここにあるのは、ただただ、その愛の深さに対する驚きであり、神の恵みに対する感謝です。このことが本当に分かりますと、自分の生涯に対する思いはいうまでもなく、世界に対する見方も変わります。
 第四に神の恵み、愛を受けて新しく造られた者として、終末があることを心に深く意識しながら、みことばに示されている神の価値観によって生きることです。パウロは、ただ十字架を誇る生き方と言います。(ガラテヤ6章14節)それは、世の価値観に惑わされないで、豊かに愛されている者として、共におられる主に導かれて、主の栄光、すばらしさが表されるように生きることです。
 イスラエルは、本来は聖なる国民として律法に示されている生き方、 神の側に取り分けられました、この世の諸国民と違う生き方をし、全世界の中で祭司の役割を果たすように求められていました。しかし、彼らは誠実ではなかったのです。そして、それを知っている今、義とされた異邦人はそれに倣ってはならないと言うのです。本当に信仰に立って生きる必要があるのです。
 
◆(終わりに) この国において少数派であっても
 信仰に立って生きることは、軟弱な生き方、或は、考えることの放棄、人格としての主体性を失うことではありません。例えば、昨年の創立60周年記念講演において語られた矢内原忠雄、戦前、戦時中の当時の日本、内外の反対勢力を抑圧し、苦しめながら、自分たちは特別な歴史を持つ特別な国であるという意識に満ちていた中で、社会的立場を追われてもキリスト者としての姿勢を貫いた矢内原忠雄は主体性を持たない生き方だったでしょうか。反対です。当時の多くの人々が人格の自由を奪われていた中で、真の自由を持っていたのです。このように、信仰によって生きることは人格の独立を失う、考えることの放棄ではありません。全てを知り、治めておられる神の前に責任を持って生きることです。少数派でも信仰に立って生きて行こうではないでしょうか。