生涯を肯定できる人

説教 川口 昌英牧師

聖書個所 テモテ11~12

中心聖句 

「そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。」  テモテ112a

 

説教の構成

◆()この個所の背景

 このテモテ第の手紙は、使徒パウロがローマの獄から一旦釈放されましたが、再び捕えられ、投獄されていた時に書いたものと考えられています。

 この二度目の投獄の時、クリスチャンを取り巻く状況は急変し、非常に厳しいものになっていました。時のローマ皇帝ネロがその治世、特にローマ市民の間に不安や不満が噴き出していたことに対し、その矛先(ほこさき)を当時増えていましたが、その信仰の内容がはっきり知られず、不安視されていたクリスチャンに向けさせようとした時であったのです。

 なかでも異邦人への宣教の中心になっていたパウロは、当局が警戒する人物でした。ですから、パウロは釈放されていましたが、すぐに捕えられ、投獄されたのです。そして、今回は、当局側の思惑があり、殆ど助かる見込みはなく、むしろ最悪の結果が確実視されていました。(46節「私はいまや注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。」)  

 新約聖書に収められているパウロ書簡の中で最後に書かれたこの書は、このようなクリスチャン、教会を取り巻く状況が厳しい中、後を託したいと願った弟子の一人テモテに対して送られたものです。ちなみにこの時のパウロの年齢は60才ぐらいと思われます。 

◆(本論)死を目前にしての平安の表明とその理由

しかし、このような厳しい状況を認識しながら、パウロはこの状況を「恥と思っていません」(12)と明言します。抑制した表現ですが、今の状態を主にあって受けとめているというのです。

   この「恥とは思わない」という表現の意味について参考になる個所があります。有名なローマ116節です。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」このところはパウロが、実は自分も以前は、福音、神の御子が人を罪と死の支配から救い出すために、十字架の死を受けて下さり、三日目に死より甦り、罪と死に対する勝利を与えてくださったと信ずることを恥と思っていたが、今は決して恥などとは思っていない、主イエスが示された福音こそが、神の前に背き、大きなあやまちを犯して来たユダヤ人であっても、又人間中心的考えが強く、数々の偶像に満ちていたギリシヤ人であっても、すなわち、どんな民であっても信じるすべての人を救う神からの力であると言っているところです。

 ですからここで、「恥とは思いません。」と言うのは、以前は平和、安全を重んじる者として、国家への違反者との指摘を受け、捕えられ、投獄されることは恥、不名誉と考えていたが、主イエスの福音を知り、真の人生を知った今ではその福音の宣教のために捕えられ、投獄されることは決して恥などではない、むしろ誇るべきことと思っていると言うです。

 

死が近いことを意識しながらそれを受け入れているその理由についてさらに説明しています。「というのは、私は自分の信じて来た方をよく知っており、又、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。」(112b) と二つの理由をあげています。

 始めの「自分の信じてきた方をよく知っている」とはどんな意味でしょう。(念のため、パウロは直接的には主イエスについて語っていますが、御子を惜しまないで与えられた父なる神、そして信仰者一人ひとりに働く聖霊なる神も含んでいることは言うまでもありません。)

 福音を与えられた父なる神、福音を実際に示された御子なるキリスト、そして福音のうちに働く聖霊の三位一体の神を思い、とりわけ救い主イエスについて、私は自分の信じて来た方を知っていると言っているのです。旧約からの人を救うための神の御心全体、そこに示されているいつくしみ、あわれみ、恵み、そしてそれらを実際の生涯を通して全て表わされた主イエスを思って豊かに慰められていると言うのです。

 では、主イエスの何を知っているから厳しい状況も受けとめていると言うことが出来るのでしょうか。勿論、主イエスの全体です。主についての預言であり、その誕生であり、語られたことばであり、なされた行いです。特に救いの成就としての十字架の死と復活であり、そしてそれらがもたらしたものです。その生涯において明らかにされた、大きな犠牲を払って、罪と死の支配から人を完全に永遠に救いだして下さり、御霊を与え、新しい人生を与えてくださったことです。

 それゆえ今、苦難に直面し、死が目前に迫っていてもその状態を受け入れているのです。尚、この「知っている」ということは、自分の人生の中で経験的に深く味わっている、確かであるということです。パウロは、イエス様にお会いし、信じて以来、その真実を心から信じ、そしてそれが彼の人生の支えとなっていたのです。(Ⅱテモテ213節、 417) 

 

もう一つの理由、「その方は、私のお任せしたものをかの日のために守ってくださることができると確信している」ということです。「かの日」とは、主の前に出て裁きを受ける時のことです。まず、地上の命を終えて神の前に立つ時です。(Ⅱコリント510) 又、終末の大審判の時です。(黙示録2012) いずれも創造主の絶対的主権によって裁かれる時です。

 けれども、罪を認め、砕かれ、主イエスの福音を信じ、悔い改めている者はパウロ自身が強く確信しているように、その裁きの時も恵みの時となるのです。(Ⅱテモテ46~8) その時、神が義の冠を与えて下さるだけでなく、任せるもの、それぞれに一番大切なものを神が大切に受けとめてくださると言うのです。この変わることがない約束、希望がありますから、絶望に見える状況ですが、決して後悔などしていない、恥などと思っていないと言うのです。

 

◆(終わりに)私たちにとって主はどんな方か。

 使徒の働き、新約に収められているパウロの13通の書簡を読んでいると、彼の人生が分かります。パウロは本当に福音によって人生が変えられ、又福音と共に死を迎えた人物でした。信じた時のことについてこんなふうに言っています。元々、恵まれた状況にあったのですが「それどころか、福音を知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを捨てて損と思っています。」(ピリピ38) 又、主の福音を知った後の生き方について「私にとって生きることはキリスト、死ぬことも又益です。」(ピリビ121) 更に死についても先述の46~8節のようなことを告白しているのです。主イエスの福音がいつも人生の中心にあったのです。

 教会に通うようになっても、私は絶望が希望に、不安が平安に、恐れが喜びに変わることなどないと思っていました。ですから実は深いところで求めていても、自分がクリスチャンになるとは思えませんでしたし、又教会の人々はどこか無理をしていると思っていました。しかし、さまざまなことを経験し、聖書のことば、特にローマ58(朗読)を通して豊かな神の愛を知ったとき、救いの確信が与えられ、中心が本当に変わりました。心の深くに鉛のようなものがあったのですが、それが消え、喜びと平安が与えられたのです。その時、福音には本当に力があることが分かりました。

 主は今も生きておられ、一人ひとりを招いているのです。どうぞこの方を受け入れ、変えられた新しい人生を送っていただきたいのです。主が与えてくださった福音は、罪の赦しと共に人生の最後の敵である死に対しても平安と希望をもたらし、真の勝利を与えるのです。