はかり知れない計画

説教川口昌英 牧師

聖書個所 ローマ人への手紙111~12節 

中心聖句 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

                        ローマ人への手紙1112

説教の構成

◆()この個所について

これまでイスラエルの人々は、旧約時代も、御子による救いが実現した後も、最も大切な信仰による義を拒んで来たことを見ましたが、パウロは、本日のところにおいてそれなら神はイスラエルの民を全く退けられたのかと言いますと、絶対にそうではないと強く言います。(1a)

 このようにあなたがたに福音を伝えている私自身が生粋のイスラエル人であり、また恵みによって多くの残された者たちがいると言います。(1b~6) では、どうして現実はこうなのかと言うと、旧約聖書で言われているように彼らが頑になったゆえですが、(7~10) 実は、彼らの違反によって異邦人に救いが及ぶためであり、そして彼らの完成、彼らの中に神の最終計画が行われることによって、すばらしい神のわざが実現するためと言います。(11~12)

イスラエルの人々がその頑さのゆえに、義とされなかったことを繰り返し言ってきたパウロが、ここにおいて彼らは完全に退けられたのではないこと、その背景や先にはすばらしい御旨の実現があると言っているのは、ものごとの表面を見て左右されるのではなく、神の視点、聖書の世界観をもって歴史を見ることの大切さを示すためです。

 

◆(本論)神のなさることは測りがたい

神の民として選ばれながら、歴史的にも、又奥義であるキリスト(コロサイ127)が贖いの御技を完成された後も頑さが目立ち、神から完全に退けられたように見えるイスラエルの人々ですが、旧約エリヤの時代、国中が偶像崇拝に満ちていた時、最強の偶像バアルに屈しない男子7千人が主のために残されていたように、今も恵みの選びによって残された者たちがいると言います。

 具体的には主の弟子たちを始め、使徒の働きに記されているように国の内外において主イエスを信じたイスラエル人のことです。イスラエル人以外から、神に背き続けた頑な民、特に御子を十字架につけた重大な罪をおかした民族と言われることが多いのですが、 パウロはこれらの信じた人々を取り上げ、神はイスラエルを完全に退けられたのではなく、なお彼らに対して特別な思いを持っていると語ります。既に御子によって罪よりの救いは成就していますから、救いのために重要な役割を果たすためという意味ではなく、旧約時代から神の民、神の器とされてきた人々を神は最後まで愛され、彼らを完成させる、最終計画を行われるというのです。

 こうして頑なイスラエルですが、恵みの選びによって多くの者たちが残されている、神は変わらずにイスラエルを大切にされていると伝えます。人は、起こっている事実に対して自分の考えを持つが、神は最後までご自分の計画をなされることを知るべきだと言うのです。

 

パウロは聖書全体から、彼らが頑になった二つの理由をあげます。一つは、ただ倒れるためではなく、(即ち、失敗して不用な存在として片付けられてしまうためでなく)、彼らの違反によって、救いが異邦人に及ぶためであったと言います。どういうことでしょうか。旧約時代、イスラエルが神に背いたことを異邦人が見たり、聞いたりすることによって、異邦人の側がイスラエルの神、また神が与えられた律法を知るようになり、神を恐れて信ずるようになったことです。又、新約時代、主イエスによって救いが完成しているのにイスラエルの多くが拒み、使徒の働きに記されているように異邦人の方がより信じるようになっていることです。

 もう一つの理由は、彼らの違反が世界の富、世界に霊的豊かさをもたらし、彼らの失敗、神の民として使命を果たし得なかったことが神の契約から除外されていた異邦人に霊的恵みさをもたらしたように、彼らの完成、彼らに対する最終的な神の計画が行われることによってすばらしい状態が実現するためと言います。終わりの時になされる神の計画が実現されることによって全世界に対してすばらしいことが起こることを示すためであると言います。分かりにくいかも知れませんが、失敗ですら用いたもう神は、最終的に彼らに対するご計画を行われることを通してさらにすばらしさを示されるというのです。

 放蕩息子の父親が背き続けた息子が悔改めて帰って来た時に、深い愛を持って迎え、再び息子として受け入れ、(弟と似ている)異邦人をも愛しているかを示したように、神は頑なイスラエルに対して最終の計画を行われることによって、やはり(兄と似ている)イスラエルをも愛していることを示し、遂には世界中の人に対するすばらしい愛を明らかにすると言うのです。

 

こうしてパウロは神の計画を忘れてはならないと言います。神はイスラエルをご自分の民として選び、彼らを通して御技を行おうとされたが、彼らは頑になった。しかし、そのように彼らが頑になったのは、そんな彼らをも最後に深く受け入れることによって、世界中の人に対する神の愛の深さを示すためであったのです。人を罪より救うためにイスラエルを選び、用いて来た神の不変の愛を忘れてはならない。人はすぐに神の民であるイスラエルですら頑になった、救いのご計画はうまく行っていないというのですが、最終的にすばらしいことをなされるという聖書全体の世界観を見失ってはならないのです。現象にとらわれず、神の御計画を深く信じることの大切さを示しているのです。

 

◆(終わりに)神を待ち望むことが大切

 戦前ドイツにおいて、ヒットラー率いるナチスの考えと相通じていた教会側のグループにドイツ的キリスト者と言われる人々がいました。このグループの指導的立場にあった者は、聖書をすべての「非ドイツ的」要素から解放すること、旧約聖書から「ユダヤ的報酬道徳」(祝福とのろい)や「家畜商人や懲役囚の物語」(アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフなどの父祖たちの記事) に反対し、新約聖書についても「あきらかに歪曲された迷信的情報」(神の御子が十字架という死刑を受けたということ)を取りのぞき、「律法博士パウロの贖罪=劣等神学」を放棄しなければならないと叫びました。キリスト教からユダヤ的要素を取り除き、力強いキリスト教を打ち立てる必要があると言ったのです。

 人間の真の問題は(創造主から背いている)罪であり、その罪から救うために神は救いの御技をされたという聖書理解ではなく、人間は力によって世界を変えることができるという考えに立ったのです。しかし、そういう信仰は何をもたらしたでしょうか。ナチズム浸透の土壌造り、そしてナチスによるユダヤ人大虐殺につながる道備えの役割を果たしたのです。

 私たちは、旧新約聖書を自分が思うように変えてはなりません。頑になり、背くことが多かったイスラエルですが、神は完全に退けたのではありません。むしろ変わらずに大切にされている、そして彼らの完成、彼らに対して最終計画を行うと聖書は言うのです。それは全世界にすばらしいものをもたらすというのです。こうして考えるとイスラエルの完成は本当にすばらしいと分かります。どれだけ神が人を深く愛しているかを知ることができるからです。選ばれながら、背いた者たちをなお愛し、最後には最終計画をなされることは、全世界にとって大きな喜びです。

 神は真実であり、神の愛は不変であることを明らかにするのです。それは、全世界にとって大きな喜びなのです。神の知恵ははかりがたいのです。このことが実現することによって起こる恵みを想像しようではありませんか。大きな希望が湧いてくるのではないでしょうか。