信仰の中心

説教 川口昌英牧師

聖書個所 ローマ人への手紙101~21節     

中心聖句 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。                   ローマ人への手紙1017

 

説教の構成

◆()この個所について

 本日の個所においても続けて、神の民として選ばれるという大きな使命を受けながら頑になり、背き、最も大切な神の前に砕かれ、率直に従う「信仰」を見失っていた同胞について語っています。前章においても言っていましたが、彼らについて語る時、まず自分は本当に彼らが救われることを望み、願い求めていると言います。(1)

 そして彼らが神の義を受けることがなかった理由、又今も神の義を受けることがない理由を明らかにしています。いくつかのことを指摘しています。彼らは確かに神に対して熱心ですが、しかし、その熱心は「知識」、人として最初に知るべき、箴言に知識の始めとして言われている「主を恐れること」に基づいていないと言います。彼らは神の義、神が約束され、実際に与えられた義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかった、受け入れようとしなかったと言います。(2~3)

 その神の義について4節以下であらためて説明しています。(4~13) それは信仰による義であって、ユダヤ人とギリシャ人の区別がない、「主の御名を求める者は、だれでも救われる」(13) 義であると強調しています。

 

   このように救いの御技の中心は、主の御名を呼び求める、信仰による義であると述べた後に、宣べ伝える者がいなければ聞くことができず、又聞くことがなければ信じることができないと言い、ではイスラエルの人々はどうであったかと言いますと、彼らは知らなかったのではなく、旧約で預言されていた通り、十分に知っていたが頑になったと言うのです。(14~18)

 救われて欲しいという願いを持っていると言いながら、むしろ彼らの頑さを指摘しているような印象がありますが、本当に伝えようとしているのは、神の民とされた者たちは一番大切なことを見失ったということです。

 

◆(本論)神がご覧になる最も大切なこと

では中身を見て参ります、まず選民とされたイスラエルの民たちが神の義を受けることがなかった、又今も受けることがない理由をはっきり指摘します。上述のように彼らは神に対して熱心であるが、その熱心は知識に基づいていないことです。(2~3)

 知識の始めであり、中心でもある主を恐れていないということですが、具体的にはどういうことでしょうか。そういう例が満ちていますが、私は彼らの安息日律法の守り方について思い起こします。ご承知のように律法の中心である十戒に定められているイスラエル民族にとって、本当に重要な戒めです。(出エジプト記208~11) この安息日は、ただ労働をしない休息日ではありません。全てを創造された方を仰ぎ、その方の御手の中で生かされていることを深く想う礼拝の日でした。又、後年、隷属させられていたエジプトから解放された後は、「主が力強い御手をもってそこから連れだされたことを覚え」る、主の豊かな恵みを覚える日でした。 (申命記515) 神の民とされ、大切な使命を与えられていたイスラエルにとっては本当に大切な一日でした。 

そのように重要な意味を持つ日ですから、イスラエルの人々は、細かな行動規範などを定めるなどかたちの上では大切にしましたが、その中心にあるものに心を留めていないのです。主イエスはそんな彼らの姿を指摘しています。(マルコ223~28) そしてそんな人々に対する神の御心がはっきり示されているのが、イスラエルを代表するパリサイ人について言われているルカ18

9~14節です。実は主を恐れていない、自分自身の罪に砕かれていなかったのです。

このように選ばれ、神の民とされながら頑になったイスラエルの人々にもかかわらず、神は最終目的である人に対する救い、完全な義の道を開いてくださったと再び言明します。(ローマ104~13) これまでにも随所で言って来ましたが、イスラエルの今後のことについて語るところにおいてもとりあげていますのは、あらためて彼らに最も大切なことを知らせるためです。

 それは、人間的力による義ではなく、砕かれた心による信仰による義です。まず5節から7節において、自分が義の中心となってはいけないと言います。続いて8節でそれは私たちの存在、人格そのものによる信仰であり、それゆえ9~10節で心に信じて義と認められ、口で告白して救われるものと言います。更に11~12節でそれを受け入れた者は決して失望させられることはない、すばらしい救いですが、選民の使命を受けたユダヤ人だけでなく、異邦人の代表であるギリシャ人にも、主を呼び求める全ての人に与えられると断言します。

 一言説明しますと、心に信じて義と認められ、口で告白して救われるとあることから、心で信じるだけでなく、告白しないと救われないと言われることがありますが、救われるためにそういう二つの段階が必要という意味ではありません。心に信じるだけでも義とされていますから救われているのですが、敢えて言われているのは、信仰者は人を恐れず、自分の信仰を明らかにして歩むことが大切であると言うためです。こうして、パウロはもう一度、神は(砕かれた心による)信仰による義を与えてくださった、どの民族であっても、どんな人であって主の御名を呼び求める者は誰でも救われる道が開かれたと告げるのです。

 

このように今や信仰による義が実現し、恵みの道が開かれていますが、しかし、その義について知らせる人がいなければ信じることができないのです。(14~15) 、ではイスラエルの人々の場合はどうだったかと言いますと、彼らは預言者イザヤが言うごとく、神のことば、神が大切にされるものを知ることができなかったのかと言うと、そうではない、十分知ることができたが、頑になったのであり、そして主イエスの福音が成就した今もキリストについてのみことばを聞こうともしていないというのです。(16~17) そんな彼らの姿は18節から21節に記されているように、神は旧約時代、既に明らかにしていると言うのです。

 

◆(終わりに)信仰生活の中心と現実の歩み

 この個所において明らかにされているのは、イスラエルの民たちが選民という恵みを受けながら、義とされなかった理由であり、そしてそれと関連して神が最も大切なこととして求めるものです。それは砕かれた心による信仰です。 

 歴史的立場や伝統の中に生きる人々が考えを変えることは簡単ではありません。まして、長年に渡って神の民とされて来たのですから、今はすべての民族に対して、しかも自分たちが重んじてきた律法によらずに、信仰による神の義が与えられていると言われても認めにくいのです。

 しかし、神は、生まれや知識や経験によらない、罪を認める砕かれた心、神が与えてくださる恵みを率直に受け入れることが最も大切であり、そしてその姿こそ希望があると言われるのです。 

 ここで言われていることは私たちの信仰生活にとっても重要と考えます。今、信じて生きている私たちにとっても信仰生活の基盤、中心を問われるからです。本当に自分の罪に砕かれているか、主の十字架が自分のためだと信じているか、救われた者として心から主に従い、主とともに生きようとしているか、問われるのです。廻りの人がどうかではありません。86才で天に召されたある牧師は毎朝、「主よ、感謝します。あなたを愛します。あなたに従います。」と言って一日を始めておられました。主とゆるぎのない繋がりを持っていて、そして人に対して柔らかく応対していた方でした。私はそういう姿勢にとても教えられています。その本末を逆にしてはならないのです。主と深く又いつも新しい繋がりを持っていることが日々の信仰生活を導くのです。