キリストのからだ

■説教 山口契伝道師

■聖書:エペソ人への手紙1:20-23      

■中心聖句:教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。        エペソ人への手紙1:23

 

  1.  はじめに 

 今年の一月から読み進めて参りましたエペソ人への手紙、このパウロの獄中からの書簡もいよいよ1章の終わりを迎えることになりました。エペソ人への手紙と言えば教会論、教会論と言えばエペソ人への手紙、と言っても過言ではないほどに、この書簡には至る所に教会についての教えがちりばめられています。本日の箇所は、この教会について教える書簡の中で、最初に「教会」が登場する場面であります。

 

 パウロがエペソの教会に宛てたこの手紙、その1,2節は教会への親しみの込められた挨拶があり、続く3-14節にはひと息に書き切られたであろう壮大な神への賛美が歌われていました。そして15節からのとりなしの祈り。本日の箇所もそのとりなしの祈りの一部であります。パウロのささげるエペソの聖徒たちのための祈りは、心の目がはっきりと見えるようになるように、というものでした。そしてその目で見るべきものを挙げるのです。前回の箇所ですが、18,19節をお読みします。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。この三つ目、はっきりと見えるようになった心の目で見るべき三つ目、「神の全能の力の偉大さを知るように」とのパウロの願いが、本日の箇所へとつながっているのです。「神の力を知る」。パウロは、すべて神を信じる者が神の力を知る、神の力の偉大さを知る、ということ願っています。私たちは、私たちの信じているこの神の力がどんなに偉大であるかを知っているでしょうか?その力の偉大さに目を留め続けているでしょうか。神を知らない多くの方は意識せずに日々を送っているのではないかと思います。何か特別なことがあったとき、問題の解決や予期していなかった喜びがあったときには超越的な力を覚え、ある人はそれを奇跡と言います。しかし、その時以外は当たり前のように過ごしているのではないか。自分にないもの、厳しい現実などを見て、あたかも神が無力であるかのように感じる。神の力など私にはないと感じる。だからこそ、自分の力で生きようとする。神様を知らない人ばかりでなく、神様を知っている私たちでさえ、そのように神の力の偉大さを見失うことが多くあるのではないでしょうか。神の力を知らず、神の力に頼らず、自分の力にたよって生きる。そのような人間の塞がれた目の現実を受け、パウロは神の力、その偉大さを知るようにと祈るのでした。

 

 しかしパウロが知るようにと願うものは、そのようなこまごまとした現象、出来事、日常にあるありふれた「奇跡」と呼ばれるものではありません。神の全能の力の働きが最大限に表わされた出来事を、本日の箇所で鋭く言い表しているのです。それが本日の箇所エペソ人への手紙1:20,21節でした。もう一度この箇所をお読みします。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。このことをもって、神の全能の力は表わされているんだと、力強く言っているのです。そして、それを知るようにと願っている。この箇所で表わされていることは、キリストの復活、昇天、そしてすべての名の上に高く置かれる。これらこそが、神の力の偉大さをもっともはっきりと表わしているものだと教えるのです。私たちをはじめ多くの人が考える神の力とは、先ほどお話ししましたような、いわゆる目に見える奇跡と呼ばれる、目に見える、非日常的な事柄です。自分たちの想像を超えて何かがなされるとき、初めてそこで神の力を知る。しかし、ここでパウロが教えている事は、私たちが知っていようといまいと、認識していようといまいと、確かに神の力は現在も力強くなされている、ということです。新約聖書の著者たちはみな、イエスの十字架は神の愛の最大限の現れであると教えます。ひとり子を十字架につけるほどに、私たち罪人のひとりひとりを愛してくださった。ここに神の愛が最も強く表わされていると教えています。それに対して、神の力が最も強く表わされているのが、この復活から始まる神がキリストになされたこと、なのでした。この神の愛と神の力を切り離して考えることはできないのです。イエスの十字架を神がなされたように、イエスの死からの復活、昇天、すべてのものを支配させるということもまた神がなされる。神の愛も神の力も、キリストにあって、私たちに降り注がれているのであります。

 

 もう一度19節に目を向けますと、ここで神の全能の力が、「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」であると言われています。つまり、20節でのキリストの復活、神の右に着座されていること、そしてすべての名の上に置かれたということは、私たちと関係のないところで働く神の力ではなく、私たちにも働かれている同じ神の力である。パウロはそのような神の力、私たちに注がれている神の力の偉大さを、知ることができるようにと、祈っているのでした。先ほど、私たちが知っているかいないかに関わらず、神の力は常にあるということに触れました。私たちの感覚にはよらずに、確かにあるのがこの神の力です。しかし、それを知って生きるのと、知らずに生きるのとでは大きく異なる。だからこそパウロは、自分自身がその力を知っている者として、あなたがたも知ってほしい、と祈るのでした。あなたがたにも降り注がれている神の力の大きさを知り、その偉大さに励まされ、力を受け、希望を持って行きてほしい、そのように願うのでした。

 

 何度もお話ししていることですが、パウロがこの手紙を書いたとき、牢獄に入れられていました。とても恵まれた環境であるとは言えませんし、ましてや、そこに神の力を見出すことなど不可能な状況です。しかし、彼は目を高く上げ、見るべきものを見ていた。開かれた心の目で神の力を知っていたのです。だからこそv3-14の喜びに満ちた大頌栄があり、15−のとりなしの祈りがあるのです。彼が目を上げ、知ってほしいと願う神の力の偉大さ。キリストの復活、神の右に着座されていること、そしてすべての名の上に置かれたということ。これらひとつひとつしっかりと見るべき大切な教えであり、復活以降のイエス様の様子を表わしている重要な表現です。しかし本日は三つ目の、イエス様がすべての名の上におかれたということを中心に考えて行きたいと思います。

 

 2. 世界の主、教会の主 

 キリストを死者の中からよみがえらされたお方である神様は、人間の最大の敵である死にさえも打ち勝たれるお方です。イエスキリストを十字架の死よりよみがえらされたということをもって、私たちにその力は示されています。それだけでなく、すべての人の罪のために十字架に架けられたキリストを、ご自分のそば、右側というのは力を表わす表現ですが、そこに引き上げられるお方である。イエス様は最後の晩餐の時、「あなたがたのために場所を備えに行く」と言われていますから、私たち神を信じる者もまた、神様によって引き上げられるということが教えられている、約束されていると考えてよいでしょう。ある意味で、これらの二つはキリストを通してなされたことでありながら、後の日、私たちにも与えられる大きな希望を教えている教えだといえるでしょう。しかし、三つ目はというと、これは明らかにイエス様に与えられた、固有の働きであるのです。イエスキリストは、神によって、すべての名の上に高く置かれる。すべての名、ここには神に造られたすべての被造物が含まれます。私たち信仰者はもちろん、神を知らない人々、また悪霊や御使いなどの霊的存在もまた、ここに含まれています。まさにすべてのもの、いっさいのものがキリストの下にある。いや、単にそのように高い身分が与えられただけでなく、22節では、それらを従わせると言っているのです。v22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。名実共に、すべてのものの主となられたのです。まさに世界の、真の主です。しかし心の目が開かれていない、神の全能の力の偉大さを知らない人は、この真の主を知らないのです。この主を知らなければ、この主に従うことはない。本来は従うべきお方であるのに、そのお方に背き、反逆し、自分自身や偶像に従うのでした。秩序が乱れている、本来の形とは崩れている、的外れな生き方です。そのような現実の堕落した姿があります。では、本来のあるべき姿、この主に従うとはどういうことでしょうか。神を知り、神の力の偉大さを知った者は、どのようにこの真の主に従うのでしょうか。

 

 実はこの「従う」という言葉、ギリシャ語ではヒュポタッソーという言葉ですが、これは私が金沢大学での卒業論文で扱った語であります。日本語では同じ「従う」という言葉ですが、ギリシャ語では大きく二つ語が使われています。一つがここでのヒュポタッソー、もう一つがアコリューセオーという言葉です。もちろんこれは覚えていただかなくて結構ですが、新約聖書では圧倒的に後者のアコリューセオーという言葉多く用いられています。イエス様が弟子たちに対して、私に従いなさいと言われるとき、それはこの後者のことばであり、「ついて行く、一緒に行く」と言った意味があります。対してこのエペソ書で言われるヒュポタッソーは、家臣がその主人、特に王に対してひざまずき、忠誠を誓い、その王のために生きる時に用いられることばです。「服従する、ひれ伏す」などとも訳されています。何が言いたかったかと言いますと、このエペソ書本日の箇所での「従う」には大変重い意味が込められている、ということをお伝えしたかったのです。王に従う家臣のような「服従」の姿が、真の主を知る者には求められているのです。王に従う家臣の生き方とは、命を王に委ね、命をかけて従っていく生き方。そのような「従い方」が求められているのです。他の何ものにも揺るがされることなく、唯一の君主に忠誠を立てて従う様子です。私たちは、そのように生きることが求められているのです。しかしこれは、地上の君主が力を持って暴力的に服従を強制するような形ではありません。先ほどもお話ししましたように、神の力を考えるとき、神の愛を切り離してはいけないのです。神の十字架があり、神の力がある。私たちのために命を捨てられた御方に対し、それまでして愛を示された御方に対し、私たちはこの身をささげることで、いのちをささげることで、従って行くのです。この世の考え方とは異なる生き方かも知れません。時代の大きな流れにはそぐわない生き方かも知れません。けれども、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれた御方にのみ、私たちは従う者でありたいと願うのです。キリストに従う。教会では多く語られる言葉です。しかしその重みを私たちは、キリストがすべてのものを支配しておられるお方、力あるお方、真の主であるお方であることとあわせて考える必要があります。

 

 戦争中、日本の教会は問われました。キリストに従うのか、天皇に従うのか。そのことを問われ、言葉を濁し、曖昧な態度を取っていた日本の教会の過去の姿があります。私たちにもそのような姿がある。時代の流れの中で見るべきお方を見失い、力あるお方から目をそらせ、声の大きな者に従ってしまうという弱さがあります。しかし、私たちが従うべきお方は唯一です。すべてのものを支配しておられるお方。すべてのもののかしらであるお方、その御方に私たちは従っていく。いわば、世界の主であるキリスト、それがこのエペソ書の1章の最後に書かれているものでありました。

 

 この、世界の主であるお方、すべての被造物が従うべき唯一のお方であるイエスキリストについてみてきました。パウロはここから、このキリストと教会の関係へと話を移していきます。もう一度22節、そして23節をお読みします。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 

3. キリストのからだ 

 教会には世界の主が与えられている。しかも「キリストのからだである」、密接な生きたつながりであることが教えられている。本日はこの「キリストの」と言われていることを特に覚えたいと思います。実は昨年も、この「キリストのからだ」という説教題でお話をさせていただきました。その時はコリント人への手紙第一を開き、教会の一人ひとりが互いになくてはならない器官であるということを教えられました。いわば、「からだ」としての教会の多用で豊かな姿、互いに愛で結ばれた生きた交わりの姿を見たのです。しかし今日、エペソ人への手紙では、私たちの教会を覚える際、世界の主、すべてのものが従うべき「キリストの」からだであるということに強調点をおいて、この箇所を読む必要があると思わされています。心の目が閉ざされ、はっきりと見ることのできない肉の目で教会を見るとき、確かにそれは世界の中の少数者であり、欠けがあり、弱さがあり、罪の多いものかもしれません。けれども、確かに私たちの教会にはこのキリストが与えられている。この力強い御言葉を覚えたいと思うのです。教会とはなんでしょうか。キリストのからだであり、真の主を知っている者の群れです。「イエスキリストは私の主です」と、力強い告白に立つ共同体であります。

 

 世界の主をかしらとして与えられている教会は、そのかしらがふさわしく崇められ、礼拝されるように働く者であります。キリストを通して働かれる神の全能の力は、私たち神を信じる者に働く偉大な力であるとの19節の御言葉を覚えるとき、必要な力はすでに私たちに与えられているということを改めて感じます。死に打ち勝つ神の力。神のみもとへと罪人を引き上げてくださる神の力。そして世界の主としてキリストをお立てになる神の力。その力は私たちにもすでに与えられているのです。だからこそ、教会の使命に遣わされることができるのです。さらに23節の後半にはいっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところとしての教会の姿が描かれています。とても解釈が難しい箇所です。しかし、いっさいのものの上に立つイエスキリストが教会には与えられている、教会のうちに満たされている、ということを覚えたいと思うのです。満たす方とは、「完成させる方、成就する方」とも読むことができることばです。すべてのものを完成に導かれるお方が、私たちと共におられる。私たちの教会を満たしてくださる。これは大きな慰めであり、励ましではないでしょうか。

 

4. 終わりに 

 従うべき方に従わず、自分かってに歩み滅びへと向かう方が多くいます。この世界は真の主を知らず、真の従うべきお方を知らない世界です。その地に教会がおかれている。すべてのものの主であるキリストをかしらとする教会がおかれている。私たちには多くの使命が与えられているのです。私たちを生かす偉大な神の力があり、私たちを使命へと遣わしておられるのです。教会はキリストのからだである。この御言葉の力強さを覚え、唯一の従うべき御方に目を上げ続けていくことができるよう、お祈りをして終わりにします。