真の陶器師である神

説教 川口昌英牧師

聖書個所 ローマ人への手紙919~33

中心聖句 神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、

異邦人の中からも召してくださいました。        ローマ人への手紙924

 

説教の構成

◆()この個所の意味

   しばらく間があきましたが、続けてローマ書を見て参ります。本日の個所は、神はご自分の御心にかなう人を通して救いのわざを行われると言うことに対し、それなら神は何故、人を責められるのかという疑問を寄せられるのですが、その問いの根底にある人間中心思想を指摘し、すべては神の深いご計画によると明らかにしているところです。それを言うに際し、救いに関して、選民とされたイスラエルの人々が考えもしなかったことが起こっている事実を指摘し、すべては神の御心であると明らかにしています。

 人と神は対等ではなく、絶対的主権は神に属し、神は御旨に従わない者をどのようにも裁くことができる方ですが(19~21)、豊かな寛容をもって、背くことが多かった「怒りの器」を忍耐するとともに、ご自身の栄光のためにユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中から「あわれみの器」をあらかじめ用意しておられ、最終の御心を行われたと言うのです。((22~29) こうして、選民とされたイスラエルは義を得ることができず、反対に異邦人が信仰による義を得たと言うのです。(30~33)

 私はこのところは、いつの時代にも見られる人間を中心にして神の御心を理解しようとする考えに対して、神のなさることは深く、人の理解を超えていることを示し、その人間中心思想が砕かれる必要があると伝えている重要な個所だと思います。では中身を見て参ります。

◆(本論)あわれみに富んだ主権者

まず、とかく人は自らを神と対等のように考え、自分の主張をすると指摘されています。前回のところで神は救いのご計画を御心にかなう者を通して行われる、「こういうわけで、神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」(18) と言われたことに対して「それなのになぜ、神は人を責められるのですか。だれが神のご計画に逆らうことができましょう。」(19)と疑問をぶつける人たちです。

 これが取り上げられているのは多くの人がそう考えているからですが、それに対して、パウロは陶器師と器の例を持ち出して(20~21)、神と人の関係はすべて神の御手のうちにあると言います。疑問が消えるどころか、益々その思いが強くなるようなことを言っています。果たしてどういう意味でしょうか。

 文言通り、すべては器を造る者にかかっていると言うのです。しかし、実は、その意味は単純ではありません。陶器師はその素材を無視するのではなく、「素材自身から伝わる声」を聞きながらそれにふさわしい形に器をしあげるという話を聞いたことがあります。表立っては陶器師一人の働きなのですが、実際は陶器師がその素材にふさわしく造っているのです。

 神と人との関係もそういう関係と言うことができます。例えば器として用いられたと言われる、イスラエルの民たちがエジプトから脱出しようとした時に頑になり、最後の災いを受けるまで決して行かせようとしなかったパロ王のことを考えてみますと、パロをあのように頑にさせたのは神であるなら、パロを責めることはできないと言われるのです。しかし、実際はどうだったのか言いますと、幾度もイスラエルの民たちを出て行かせる機会があったのです。けれども自分たちの国の利益のために最後まで認めなかったのであり、神はその頑さに対して、またそれを用いて御心を行われたのです。このように、神はその人にふさわしく働き、御心を行われるのです。少し分かりにくいかも知れませんが、20節、21節で言っている中心はこのような意味だと思います。

したがって、すべては神がしたことであり、人には責任がないと言い訳することはできないのであり、人はその誤りに気づくべきと言うのです。

 

続けて救いに関しても、神は想定外のことをなされた、その知恵は何と測りがたいのだろうと言います。(22~29) 神は、神の民とされたが、背くことが多かったイスラエル、従って滅ぼされてもしかたがない「怒りの器」を豊かな寛容を持って忍耐するとともに、異邦人の中から召され、あらかじめ用意されていた「あわれみの器」によって栄光を表すという想像外のことをなされたというのです。異邦人に対して救いの恵みを与えるという驚くべきことをなされたと言います。救いは人間の想像、想定を超えてただ神の主権に属していると言うのです。

 先述の陶器師の例えを用いて言うならば、神はアブラハムの子孫、イスラエルを神の民、選民としましたが、彼らは自らの背きのゆえに「怒りの器」となり、一方、異邦人はそれまで神から遠く離れていたが、その中のあらかじめ用意されていた者たちは御心によって神の栄光を受ける「あわれみの器」となったというのです。すべてを見ておられる陶器師、主権者である神の手のわざ、神の知恵によると言うのです。そしてそうなることは旧約聖書の中で既に神が明らかにしていると言います。(25~29)

  不思議です。人間的には明らかに神の民、聖なる国民、宝の民、祭司の王国とされ(出エジプト19) 律法が与えられたイスラエルの民たちの方がはるかに神に近く思えるのです。しかし、実際はそうならなかったのです。神がそうしなかったのです。何故なら、イスラエルの民たちは、神の民として召された最も大切なこと(創世記171)をおろそかにし、他方異邦人は、その最も大切なことに気づくようになったからです。その最も大切なこととは神にあって生きること、神を愛することであり、又隣人を自分を愛するように愛することです。イスラエルの多くの者はそれについて知識を持ち、その重要性に気づいていましたが、自分たちの姿、罪に砕かれることがありませんでした。それに対して、異邦人のある者たちは、元々神から遠い者(エペソ211~12)でしたが、自分の本質、罪に気づき、砕かれたのです。救いを受ける「あわれみの器」となったのです。

 こうして神の主権により、人の想像外のことが起こったのですが、その中心にあるのは、予測がつかないことではなく、神が最も重視されている信仰であるともう一度強調します。(930~33) ずっと語り続けて来たこと、神の義を受けるために最も大切なことは信仰であるともう一度明らかにしているのです。

 

◆(終わりに)神にふさわしい器に

 本日の個所においてパウロが語っているのは、特にイスラエルの人々の偏見、その霊的高ぶりに対してです。全ては神がなさること、神の主権に属していることであるなら人には責任がないという考えに対して、そうではない、あなたがたが最も大切なことに自ら背を向けたゆえに神の義が与えられなかった、しかし、異邦人のある者たちはそれに気づき、信じたゆえに義とされたことを知るべきと言うのです。これは聖書全体のメッセージです。

 私たちもここに出てくる疑問を神にぶつけていないでしょうか。神が自分をそうされているのだから、自分ではどうしようもないと言うことです。全ては神がなさることであると思うことです。しかし、そこに誤解があるのです。福音書の種まきの譬えが真理を伝えています。(マルコ42~20) この譬えは、福音、みことばの聴き方、受けとめる姿勢について言っているのです。人はうわべを見ますが、神は、私たちの信仰、砕かれた心、神を愛する姿勢をご覧になっています。そしてそんな者たちをご自身の御手の中で神にふさわしい器として選び、成長させてくださるのです。私たちの魂は砕かれていますか。主に用いられやすい状態でしょうか。