罪人を招いて救う方

説教 川口 昌英 牧師 

聖書個所 ルカの福音書191~10節  

中心聖句 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。 

                       ルカの福音書 1910節            

◆()この個所の背景

著者ルカについて(聖書記者の中で唯一の異邦人。医者、歴史家)

・ルカの福音書テオピロに対して福音を伝えるために書いた二つのうち第一の書(ルカの福音書11~3節、使徒の働き11~2節。テオピロについては諸説ありますが、「尊敬するテオピロ殿(他の訳では閣下)」とあることから実在した、社会的に高い地位を持つ人であると思われます。恐らく、ルカの著述と出版の後援者であると思われます。

 ルカはこのような後援を受けて、異邦人信者、求道者、そして全世界の人々に対して救いの道が開かれていることを伝えようとしたのです。

・ルカの福音書の特徴四福音書の中で、この福音書にしかない記事を見ると、ルカがイエス様について特に伝えたいと思ったことが分かります。ちなみに次のような記事です。「罪深い女性の救い」(7)「 良きサマリヤ人の物語」(10) 「罪人の救いに関する三つの譬え}(15) 「取税人のかしらザアカイの救い」(19)等。即ち、当時の社会において、信頼されない、むしろ否定されていた、又律法の知識も経験もない人々をも主は大切にされ、愛しておられることを示し、神の愛の広さ、深さを明らかにしようとしています。

ザアカイという人物(名前の意味、正しい者、清い者という意味)

・エリコの町の取税人のかしらであり、金持ちでした。取税人は、神の民であるユダヤ人から見ると(支配者であるが、汚れた異邦人と見なしていたローマの手先になっているゆえに)宗教的に汚れているとみなされ、忌み嫌われていました。又、取税人は、その立場を利用し、不正を行い、定められている以上を税金と偽り、その差額で私服をこやしていた者が多く、その点からも特別の罪人と思われていました。

 ザアカイはそんな取税人であり、ユダヤ人社会の中では神の民の道からはずれた者として嫌われ、憎まれていましたが、しかし一方、実際には取税人のかしらとして力を持ち、金を持ち、富んだ豊かな生活をしていた人物でした。

・イエスを見たいと思ったそんなザアカイがメシア(油注がれた者、旧約聖書で何個所も預言されている、来るべき救い主)であるとの評判が高いイエスが自分たちの町に来たと知ったのです。彼は、それを聞くや、イエスが通られる道に行きましたが、既に大勢の人が沿道にいて、背が低いため見ることが出来ませんでした。けれども、ザアカイは、イエスを一目見ることを諦めることができませんでした。

 聖書は、その理由を記していませんが、この記事全体から見ると、ザアカイは自分の人生の意味や或いは死後のことを考えていたと思われます。本来は、神の民、聖なる国民でありながら、又律法を知っていながら、富や力を求めて取税人となり、かしらにまで上り、富と力は手に入れましたが、一方、心の奥底に虚しさと恐れが増え広がって、出来るならば人生の清算をしたいと思っていたようです。

 そんな心境になっている時に、各地で、絶望していた人々に平安と希望を与え、新しく生きる力を与えているという評判の方、イエスが来たというのですから、彼は何としてでも見たいと思い、大人げない行動であったが、ふさわしい木を見つけ、登り、葉っぱに隠れて主を見ようとしたのです。                            

 

◆(本論)そんなザアカイに主イエスがなされたこと

そんなザアカイに、主は、隠れていた彼の名前を呼び、とても重要なことを告げられました。主イエスはザアカイがこっそり隠れているところの真下のところで止まり、上を見上げて「ザアカイ」と名前を呼ばれたのです。主は以前に一度も会ったこともない彼に、いきなり「ザアカイ」と名前を呼ばれたのでした。聖書の世界では、特別に名前が呼ばれている場合は、その人の全てを知っていることを表します。即ち、主イエスはザアカイに対し、あなたの生き方、心の中の思いを全て知っておられることを伝えたのです。

 続いて、主はとても大切なことを話されました。恐らく驚き、混乱していたであろうザアカイに対し、続けて「急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われました。これは、新約聖書が書かれた元々の言葉であるギリシャ語本文を直訳すると「きょうあなたの家に泊まることは、わたしにとってどうしても必要なことである。」という意味です。即ち、主は、わたしがエリコの町に来たのは、ザアカイ、あなたに会い、あなたと話し、あなたにわたしの救いを届けるためであると言われたのです。

こうして主は、ザアカイの家の客となり、心から今までの生き方の悔い改めを表明したザアカイに対し、救いを宣言されました。一連の主イエスとザアカイの会話を聞いていた群衆は、「あの人は罪人のところに行って、客となられた。」とつぶやき、不平を漏らしました。

 しかし、自分の人生のことを真剣に考えていたザアカイにとって、他の人々の非難、つぶやきは、今や少しも気になりませんでした。彼はただ、神の前における自分のこれまでの生き方、行動を率直に認め、告白し、律法に決められている以上の行動を表明したのでした。

 ここで、彼が言っていることは、自分の財産の半分は貧しい人たちに与え、残りの半分でだまし取った分を四倍にして返す(本来は二倍弱で良かった)というのだから、実質的に全てを失うということです。誤解してはなりませんが、ザアカイのこの行動は、主の愛を知り、自分のこれまでの生き方を認め、悔い改めて表明したことであり、赦されるため、救われるためではありません。主の側も、ザアカイが大喜びで主を迎えた時点で救われたことを知られていたのですが、明白な彼の行動に対し、改めて「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と救いをあらためて公に宣言されたのです。

最後に、主は、ご自分が来られた目的を「失われた人を捜して救うために来た」と表明されています。主イエスにとって、ご自分の救いを与えるのに、その人の立場や経歴は関係ありません。本来の創造者のもとから離れた、今は見えなくなっている全ての「失われた人」を捜して救うために来られたのです 。本当は、ザアカイだけでなく、町の者もまだ救われていない人はすべて失われているのですが、まず、ザアカイのように自分の人生について悩み、苦しんでいる人のことを「失われた人」と呼んだのです。主は、民族も国籍も立場も経歴も過去の行動も関係なく、ただ罪の中にいる者を捜して救うために来られたのです。そして、ザアカイのように受け入れる者が救われるのです。

 

◆(終わりに)人はうわべを見るが、主は一人ひとりの中心にあるものをご覧になる。

 この個所は、私たちに希望を与えます。 今も主は失われた者を捜しておられ、救いを与えようとされていると知ることができるからです。

 主は、人のようにうわべを見る方ではありません。自分でどうすることが出来ないで悩んでいる者を招いておられる方です。神の救いは、立場や経歴ではなく、自分のうちに罪があることが分かり、そのために神の御子が救い主として来られ、十字架の死を受けてくださり、三日目に死より甦られ、罪と死に対する勝利を与えてくださったことを受け入れるだけです。この神の愛を知る時、人生が変わるのです。(第二コリント517) どうすることも出来ないで苦しんでいた人がこの福音を知り、生きる喜びと希望を持つようになっています。あなたは救いを知っていますか。