聖霊と現代

川口昌栄 牧師

聖書個所 ガラテヤ書525~26

中心聖句 もし私たちが御霊によって生きるなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。                              ガラテヤ人への手紙525節                               

 

◆()聖霊降臨日記念礼拝において、現代の、聖霊をめぐる考慮すべき考えをおさらいします。

ペンテコステ派(聖霊を重視して現代においても聖霊の働きを中心的に考える立場)、カリスマ派(カリスマとは新約聖書の言葉、ギリシャ語においては賜物の意、聖霊の賜物を求め、中心とする立場)のように、クリスチャン生活の中心は聖霊の直接の働きであるとする考えがあります。新約聖書、特に使徒の働きに記されているような聖霊の力を現代のキリスト教は再発見し、あらためて適用すべきと考えるのです。

実はこういう考え、クリスチャン生活は聖霊が中心であるとする考えは初代教会の頃よりありましたし、又教会史上それぞれの時代背景のもと、かたちを変えて度々現れています。

現代のペンテコステ派、カリスマ派には次のような背景が考えられます。20世紀の初め、近代の合理主義の台頭により、社会における教会の影響力が低下しつつある中、相変わらず神学や教理の主張に流れがちであった当時の信仰、教会に対する危機意識として、聖霊の力を見直すことが提唱されたのです。そうして「いきいきとした信仰」のしるしとして「異言を語ること」「聖霊によるバブテスマを受けること」などが主張されたのです。この流れは、アメリカで起こり、やがて南アメリカやアフリカの人々の支持を受け、そうしてアメリカの福音派の人々の中にも大きな勢力を占めるようになり、世界的に広がっているのです。

日本においてもそういった背景を持つ教団から送られた宣教師によって、いわゆるペンテコステ派やカリスマ派の教団の教会が各地で形成されていますし、今も伝えられています。

 そのような状況の中、時々、問題になるのは、ペンテコステ派と従来の福音派の教会が互いに相手が誤っている、或は熱心でないと受け入れず、拒んでいるように見えることです。中には一つの教会の中にも聖霊の理解を巡って溝があることです。基準である聖書は、聖霊と信仰生活についてどう言っているのでしょうか。

 

◆(本論)聖霊について聖書全体の教えを見て参ります。

聖書は、聖霊そのものを非常に重視します。主イエスは、十字架を目前にした夜、弟子たちにご自身が天に昇られた後、同じ本質を持たれるもう一人の助け主、彼らといつも又いつまでも共におり、真理に導き、どのような時にも慰め、励ます、そして何よりも主の栄光を現すお方、即ち、キリストの香りを放つ信仰生活に導く方として聖霊が与えられると繰り返して語っています。(ヨハネ14-16)

 そのように一人ひとりの現実の信仰生活において親しく働かれる方であるから、たとい、子なるキリストを逆らうようなことを言っても赦されるが、聖霊なる神に逆らうことを言う者は絶対に赦されないとまで言います。(マタイ1231~32)

聖書は、又聖霊の働きを重視します。宣教拡大を記している使徒の働きは、別名、聖霊行伝とも言われています。お約束通りに与えられた聖霊によって、使徒たちが18節にあるごとく、主の証人として遠くの地まで福音を力強く宣べ伝えたことを記しているからです。主の約束通り聖霊がくだられ、そしてその聖霊に満たされて、使徒たちが変えられ、用いられたこと、福音信仰の拡大において聖霊が大きな役割を果たしたことを伝えています。

信仰生活において聖霊に満たされることが大切と言います。使徒パウロは、一人ひとりのキリスト者に対して、あなたがたは教会の一員であるとを言うとともに(Ⅰコリント12章、エペソ4)、それぞれに御霊に導かれて、或いは満たされて歩みなさいと勧めています。本日の聖書個所もそうです。そして御霊の実を結ぶ信仰生活を送りなさいと勧めます。      

 

このように、聖書は聖霊を非常に重んじています。そもそも聖書自体も聖霊に動かされた者たちによって書かれたのです。(Ⅱペテロ121)又、個人の信仰も聖霊によらなければ主を信ずることはないと明言されています。(Ⅰコリント123) 即ち、聖書も信仰も又先ほど話したように教会も信仰生活も聖霊の働きがなければ存在しないのです。

 聖霊はそれほど重要な存在です。それゆえ、信仰生活において聖霊を強調する立場のように重視すべきと言うことは理解出来るのですが、他方、聖霊ご自身、あるいはみことば自身が聖霊と父なる神、御子キリストとの一体性を大事にされておられることを忘れてはなりません。

 聖霊は独自に働かれる方ではないということです。聖霊なる神は、父なる神と子なる神キリストと一体の神であるからです。働き方は違うが同じ本質を持ち、同じ目的のために働く方です。従って聖霊を強調する側も、聖霊を突出させてはならないのです。みことば、主イエスに反していないかを深く主の前に問うことなしに、自分は確信が与えられた、聖霊は私をこのように導かれたというのは本来の聖霊の働きではありません。むしろ、神から離れ、又キリストの教会を混乱させる働きなのです。一方、福音派の側も実際、聖霊の導きや働きを重視すべきであるのに教会の混乱を恐れるあまり、その存在、働きを一切無視することも聖書的ではないのです。

 

ですから、本当に大切なのは聖霊、御霊の本来の姿、その働き、力を正しく知ることです。そうして、御霊が私たちの信仰生活において、みことばの理解を与えて主イエスに対する信仰に導き、教会の一員としてくださること、又いつも共におられて慰め、励ましを与えておられることを知ることが大切なのです。そうすると御霊がどれほど身近で重要な存在であるか分かり、又、御霊だけを特化させることが誤りであることも分かるのです。

 

◆(終わりに)御霊に導かれる信仰生活

 詳細に見て来ませんでしたが、このところにおいて、使徒パウロは、 大切な御霊が与えられている恵みを覚え、「もし、私たちが御霊に導かれているなら、御霊に導かれて進もうではありませんか。」と訴えています。御霊は私たちの信仰生活において極めて大事な方であることを深く受けとめて、この方に導かれて主の証人として歩み、御霊の実を結ぶ、主の栄光を表す生き方をしようと強く勧めているところです。

 それは御霊だけを特化させてという意味ではありません。父なる神、御子との三位一体の神の一員としての働きなのです。この 理解を逸すると御霊に導かれたと言いながら、自分の思い、感情が最優先になってしまうのです。そして残念ながらそういう事実が少なくないのです。 

 一人ひとりに働き、今も共におられる御霊なる神に感謝しましょう。そして御霊が働かれるのはみことばを通してですから、みことばに親しみ、すべてを委ねる者となりましょう。いきいきとした信仰はみことばに親しむという基本に忠実な姿を持ち続けるときに、御霊が働き、与えてくださるのです。そして御霊の実を結ぶ者となるのです。信仰生活に特別な道はないのです。

 これまで牧師としての歩みの中で、聖書が言うところの御霊の人だなぁと感じたのは、自分の信仰は良いが、他教会や他の人はだめだと言う人ではありません。そうではなく、そういう面があるにしてもその教会のために、その人のために主に祈っている、そしてむしろその破れや欠けを補おうとする人です。そして家庭でも社会でも教会でも主を見上げている、愛と慎みに満ちた人です。周りの人々がその人の背後にある、主を見上げたくなるような人です。御霊に導かれているとはそのように生き方の中心が本当に変えられていることです。

 ペンテコステ礼拝の本日、教会としても又一人ひとりとしても御霊の豊かさを改めて覚え、そのお方が与えられていることを心から感謝しましょう。そして真の主のしもべとして歩みましょう。