神を知るために

説教:山口契 伝道師

聖書:エペソ人への手紙1:1519   

中心聖句:どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

 

  1. はじめに 

 

 前回までに私たちはエペソ人への手紙1:3-14を見てきました。そこでは神様が降り注がれる、すべての霊的祝福がいたるところにちりばめられていました。その一つ一つは私たちの救いに関わるものでした。まるで私たちに与えられているものはこんなにもすばらしいんだと叫ぶように、手紙を送るパウロは書き連ねていました。世界の基のおかれる前からの選び、ご自分の子にしようと愛をもって定め、具体的にはひとりごの十字架の血によって罪を清められ、そしてやがての日、神様の時が満ちるときにはすべてのものをキリストにあって一つとされるという約束。最初から最後まで神様が私たちに目を留め、愛していると語りかけ、導いてくださる。私たちの救いの全体像ともいうべきこれらの光り輝く祝福をパウロは覚え、そのすべてが「神の栄光がほめたたえられるため」であると結ぶのです。途中で句読点を挟まない、まさにこれらの救いを受けたものとしての喜びをそのままに、神への賛美として歌い上げたのが前回の個所でした。それに続く本日の個所、先ほどお読みいただいた15-19節では、パウロの祈りが登場します。

 

パウロの祈り 

 15,16節をお読みします。こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。「こういうわけで」という言葉をもって始めています。「こういうわけで」。先ほど見てきました、直前にある大頌栄です。私たちに与えられている救いの数々を数え上げ、それゆえに神の栄光をほめたたえた大讃美を受け、こういうわけで、感謝をささげ、祈っているというのです。パウロが牢獄の中聞いたエペソの人々の様子は主イエスに対する信仰とすべての聖徒に対する愛でした。人間的な目で見れば、これはエペソの人々が優れているという記事となるでしょう。しかしここでパウロは、エペソの人々を称賛するのではなく、エペソの人々に信仰を与え、愛を注がれた神様に目を留め、感謝し祈っているのです。まぎれもなく、直前の記事のままの喜びがここでも反映されているのです。世界の基のおかれる前から一方的にエペソの人々を選ばれた神様が、エペソの人々にすばらしいものを与えてくださった。だから、神に感謝をささげ、さらに祈っているのでありました。

 

 ここでの強調は「絶えず~する」、という言葉にあります。パウロは祈りの人であり、感謝を忘れることがなかったのです。何かが足りない、欠けているから祈るのではない、何かがあったから感謝をするのではない。実際、パウロはこの時牢屋に入れられていました。それがどのようなものだったのかは詳しくはわかっていませんが、少なくとも自由は制限されていた。この先どのような状況に進むのかは分からない。自分ではどうすることもできないような苦しく先の見えない暗やみの状態に彼はいたのです。しかし、感謝する。しかも絶えず、です。さらに祈る。自分のことでもいっぱいいっぱいなはずなのに、遠く離れたエペソの人々のために覚えて祈る。本日の個所を読んでいく中で、パウロ自身が経験していた恵みをそのままに伝えているのではないかと考えられる個所がいくつか登場します。そのうちの一つがこの聖徒たち、言い換えるならば、主にあっての兄弟たちのために祈る、ということです。パウロもまた祈られていたし、祈りを必要としていた。ある教会に宛てた手紙の中でパウロは言います。あなたがたの祈りと、イエスキリストの御霊の助けによって、このことが私の救いになることを私は知っているからです(ピリピ1:19)。またエペソ人に対しても、手紙の終わりでは祈ってくださいと願っている。パウロ自身が受けて来たたくさんの祈りであり、だからこそ、彼は祈り続けるのです。

 

 祈りというのは一方向ではない、ということを強く思わされます。祈りというものは、神様を中心とする交わりの中に張り巡らされているのです。そして私たちもその祈りの渦の中に入れられている。自分が日々覚えて祈っている人、自分のために日々覚えて祈ってくれる人。顔を思い浮かべることはできるのではないでしょうか。私たちが神様に向けて、誰かのために祈る祈りは、神を中心とする交わりの生きた形なのです。教会は共同体である、と言われます。その中を行きかう熱い祈りは、さしずめ血流を体中にめぐらす血管のようなものでしょう。祈りによって共同体は命の営みを続け、私たちの交わりは生きた、強い交わりとなっていくのです。

 

さらに祈りは内側でだけ循環するものではなく、広がっていくものであります。今月の25日、26日には聖書講演会が予定されています。そしてそれにあわせて、祈りのリストというものが作られている。そこにはたくさんの人の名前が挙げられています。何年も教会に足を運ぶ人もいれば、たった一度来ただけの人もいる。いや、まだ教会に来たこともなく、多くの人にとって顔も知らないような人の名前も挙げられています。家族や友人、職場の同僚、近所の方々。そのリストに名前を連ねる方々は多種多様です。しかし、そのひとりひとりも、私たちが神様に祈ることで、神様につながるのです。「とりなし」といわれる祈りです。その人自身が神様を拒んだとしても、あるいは離れようとしても、私たちが祈り続ける限り、その人と神様の関係は続きます。だからこそ私たちは祈り続ける。あきらめずに語り続ける。パウロとエペソの人々、そして私たちもまた、この神様を中心とする祈りの交わりの中におかれているのです。

 

パウロは祈り続けます。絶えず感謝をささげます。パウロという人物はキリスト教の基礎を築いたと言っても過言ではないほどの偉大な人物です。しかし、そんな彼だからこそ、困難な状況にいながらも感謝し、ほかの人のために祈ることができた、ということは適当ではありません。なぜなら、彼の喜び、感謝の源にあるのは、彼が手紙を書き送るエペソの人々をはじめ今の私たちも受けている大きな恵みだからです。「こういうわけで」、すなわち、私たちにもたらされている救いです。救いがあるゆえに、私は、あなたがたのために絶えす感謝をささげ、祈っている。私たちに目を留め、愛を注ぎ、救いを与え、抱きしめてくださる神様が、彼の喜びと祈りの源にはありました。その御方を、その御方にある希望を、益々深く知ってほしいとパウロは祈るのです。それでは、その救いに押し出されてパウロが絶えずささげてきた祈りの内容を見て行きましょう。

 

神を知るために 

 17節、どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。パウロは神に呼びかけます。わたしたちの主イエスキリストの神、すなわち栄光の父。礼拝の中で私たちは「主の祈り」という祈りを共に祈ります。その初めは、「天にまします我らの父よ。」天におられるお父さん、栄光に輝くお父さん、そのお方が神様であるのです。「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」と、聖書は神の子とされた私たちに対して教えています。その御方に願うものが、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられるように、というものなのです。

 

 「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」パウロの願いは、エペソの人々が神を知ること、そのために知恵と啓示の御霊が与えられることでした。ある人はここで立ち止まります。エペソの人々は神を知らなかったのだろうか?少し前には、信仰とすべての聖徒に対する愛が認められていたにもかかわらず、それでは不完全だったのだろうか、と考えます。  この「神を知る」ということ、この意味を知るためには新約聖書が書かれました元々の原語でありますギリシャ語を見る必要があります。すると、ここでの「知る」という言葉はただ単に認知する、知識として得るということではなく、より深い意味、人格的に知る、経験的に知るという意味があることが分かります。つまり、パウロはここで、あなたがたは今のままでは不十分だから、といってこれを祈り、神に願っているのではなく、もうすでに神を信じ、神の子とされている者として、さらに神を人格的に、経験的に知るように、と言われているのです。同時にこれは一つの時点だけの「知る」という行為ではあり得ません。ますます深く知り続けて行くようにということが言われているのです。

 

 人格的に知る、と申しました。この知るという言葉は、結婚をした夫婦の間で用いられることばでもあります。結婚した男女は互いに知り、まことのひとりの人とされていく。遠くから客観的に知るのではなく、近くで寄り添い、共にその生涯を歩み、語り合う。愛の交わりがこの「知る」という言葉には含まれているのです。無機質な「知り方」ではなく、熱を持った、暖かい関係がここに生まれる。エペソの人々よ、あなたがたもほんとうの意味で神を知り続け、その愛にとどまりなさい、というのであります。神を知るということは、それほどまでに豊かな恵みであるのです。しかし、パウロはエペソの人々に対して、神を知りなさい、と言っているわけではありません。「神を知るための知恵と啓示との御霊」が与えられるようにと、父なる神に祈っているのです。

 

 「神を知る」ということが人間の力では決して得ることのできない者であることをもパウロは教えています。神を知るためには、厳しい修行や敬虔な瞑想ではなく、知恵と啓示の御霊が必要なのです。人の努力ではなく、ただ神が与えられるこの知恵と啓示の御霊によらなければ、誰も神を知ることはできない。啓示と書かれていることばは、神が御自身を明らかにしてくださる、示してくださるという意味をもちます。人間が自分の力でたどり着くのではなく、その知識を積み重ねていくことで神を知ることに至るのではなく、神が御自身を示してくださるからこそ、私たちは神を知ることができるのです。であるから、私はあなたがたのために祈る、絶えず祈っていると言っているのです。多くの人々は自分の力で神を知ろうとします。自分の知識の中に神を入れこもうとします。理解できないことをなくし、すべてを理解した上で神が分かった、神を信じると言います。しかしそうではない。ほんとうの意味で神を知るとは、ただ、神によって与えられる御霊によるのです。だからこそ、私たちはこの神を知るための御霊が与えられるように、多くの神を知らない人が神を知るように祈るのです。またすでに神の救いを受けていながらもなお、神の愛にとどまり続けることができるように、神を知り続けることができるように、兄弟姉妹のために祈り続けるのです。

 

 パウロはこの「神を知る」ことを、言葉を変え、重ねて祈ります。18,19節また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。少し長い文章ですが、パウロの祈りの中心は、v18あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、v19終わり、知ることができますように、であるということができます。やはりここでも、先ほどと同様「知る」ということがポイントとなっているのです。そして知ることの内容三つが、間に挟み込まれているのです。心の目がはっきり見えるようになって。心の目、というのは聖書中ここだけに登場する珍しい言葉です。はっきり見えるようになる、言い換えれば、今ははっきり見えていない状況にあると言えるでしょう。暗やみの中におかれている。見るべきものが見えていない。自分がどこから来てどこへ行くのかも分からない、そのような中にいる。しかし、そんな暗中模索の私たちに光が与えられるのです。はっきり見えるようになる、という言葉は、「照らされる」と直訳される言葉です。心の目が照らされる、暗やみに光が与えられる。自分の力で捜し求め、解決を探し、どこに行くべきかを必死に探っていた。そこに光が当てられるのです。光が当てられ、暗やみの中を見渡すことのできるようになった心の目が見るのは、神の召しによって与えられる望み、聖徒の受け継ぐものの栄光、そして神の全能の力の働きによって私たち信じるものに働く神の優れた力の偉大さです。

 

  1. 与えられている希望 

 これら三つは、いずれも前回までに学んできました314節で歌われている私たちの救いと深く結びついているものです。それぞれを改めて詳しく見ることはできませんけれども、聖書の教える救い、神を信じることによって与えられる救い。その救いが与えられた者の希望が、明るくされた心の目で見ることができるものなのです。

 

 私たちはこの、私たちに与えられている救いの希望を簡単に見失います。少しの風が吹けば揺らいでしまう弱い存在です。しかし、先にも触れましたように、この手紙を書送ったパウロという人物は、自身がどんなに困難な状況、先の見えない不安な中にあったときでも、絶えず感謝をささげ、絶えず兄弟姉妹のために祈りをささげていた人物です。それは、彼自身がほんとうの意味で神を知った者、神との愛の関係に入れられた者であり、心の目に光が当てられはっきりと希望を見ることができていたからでした。薄暗い牢獄の中、気持ちさえも塞がれるそのような中にあって、彼の心の目に光を与えられ、こうこうと輝く希望を見させられたのは神様です。彼が祈りで呼びかけるお方、主イエスキリストの神、すなわち栄光の父。栄光の父を、ある人は、栄光輝く父と訳しました。この輝くお方の光を受けて、私たちはこのくらい現実の中でも確かな希望を見ることができるのです。

 

 エペソ教会のために絶えず祈るパウロの願いは、神を知るようになる、神との深い愛の関係に入ってほしいというものでした。すでに救われた私たちすべてがそのようにたくさんの積み上げられて来た祈りによって、神を知り、神の愛の中に居続け、今日を迎えることができているのです。私たちもまた救いを知った者として、神との愛の交わりにいかされている者、神を知り続けていくことを願う者として、絶えず祈る者でありたいと願います。