選民とされた目的

川口 昌英 牧師

❖聖書個所 ローマ人への手紙9章1節~18節 

❖中心聖句 

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。  ローマ人への手紙9章3節

 

❖説教の構成

◆(序)この個所について

 5章から義とされ、救われた者の霊的状態や与えられている恵み、取り巻いている状況について語って来たパウロですが、9章から再び旧約時代選民とされたイスラエルについての神の御心を明らかにしようとします。

 何故、異邦人が中心であったローマの教会にあてた手紙において、前半の2章~3章に続いて再度神の民とされたイスラエルの問題をもう一度取りあげる必要があるのでしょうか。それは信仰の中心、本質、救われた者の状態について語った後、彼らが選民とされた意味をとりあげたのは、神はその歴史を無視されず、顧みておられる、やがて彼らに完成を与え、そしてその完成は全世界にとって本当にすばらしい意味があることを知らせるためです。結論として言われている11章33節~36節(朗読) にありますように、神の知恵と知識の深さ、すべてのことが神から発し、神によって成り、神に至ることを明らかにするためです。

 ですから本日の個所から始まっていますイスラエルについての個所は、前に述べたことの繰り返しではなく、人を罪より救うためにイスラエルを選び、神の民として定め、用いられた神のご計画の最終目的を示し、その深遠さ、壮大さを伝えるためなのです。

◆(本論)かけがえのないイスラエル

① 選民も律法も義をもたらすことはできない、神はただ信仰による義を与えてくださった(3章21節~26節)、従って選民と義は直接関係がないとはっきり言って来たパウロですが、ここに来てもう一度ふれていますのは、上述のように義の問題に関してではなく、別の観点、最終の御心である世界の救いとの関連において、選民とされたことの意味について明らかにするためです。

 そして、そのイスラエルに対する御心についての論を展開するにあたり、本日の個所においてまずパウロは、同胞であるイスラエル人に対して本当に深い思い、大きな悲しみ、絶えず押し寄せる痛みのような思いがあると言うのです。(1節~2節) そして同胞の(救いの)ためであるなら、自分がキリストから引き離されてのろわれた者となることさえ願いたいとまで言います。(3節) すぐ直前で自分にとってどんなに厳しいものであっても、反対にどんなにすばらしいものであっても、キリスト・イエスにある神の愛から私を引き離すことはできませんと言ったばかりですが、それが奪われても良いと言うほど、同胞であるイスラエルの人々が救われることに強い思いを持っていると言うのです。

 何故なら、彼らは確かに歴史的に度々神に背いたが、救いの御技という神の目的のために非常に重要な役割を担って来たのであり、それゆえ世界の救いという神の御心の見地からイスラエルを軽んじることは正しくないと言うのです。次のように言います。「…子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。父祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」(9章4節~5節)

 最終目的である人を罪と死の支配から救い出すために、イスラエルは旧新約の両方の時代ともその土台として本当に重要な役割を果たして来た神の器であったと言うのです。それゆえ、御子による福音が実現した今、律法の背景がなくても、どの民族であっても、どのような過去を持つ者であっても、ただ信仰によって義が与えられるとはっきり示されたけれども、イスラエルが神の目的実現のために果たした役割は非常に大きいのであり、彼らを忘れることは世界の救いという観点からも正しくないのであり、私自身はそのような彼らの救いのためであるなら全てにまさる喜びであるキリストから引き離されてもよいと言うのです。ここにおいて見られるのは、救いのために選民とされ、用いられた同胞に対する深い愛であり、又彼らを用いられた神の御心に対する恐れです。要するに、パウロは今は既に御子による完全な義が実現し、又イスラエル自身はその救いを頑に否定しているが、彼らは大切な役割を本当に長い間、担って来た神の器なのであり、そんな彼らのことを思うと何とか真の救いを得て欲しい、そのためなら自分自身がキリストの愛から引き離されても構わないと言うのです。選民とされ、用いられ、様々苦難を経て来た同胞イスラエルの人々こそ本当の救い、神の愛と恵みを知って欲しいと心の奥底から願っているのです。

 

②しかし、そのように願うもののパウロは、感情的になっていません。感情的になるとは、民族主義、国粋主義になることです。それは、神の御心と対極にある人間中心主義です。パウロはあくまで神中心に立ちます。器として用いられたことを重視しますが、神がイスラエルを選び、用いようとされた理由を再度明らかにします。6節以下です。少し説明しますと6節から9節は、アブラハムが後継ぎとして人間的に考え、行動して与えられた女奴隷ハガルとの子イシュマエルではなく、長い間不妊でありましたが、約束の通りサラに与えられたイサクによって御心が行われたということです。又10節から13節は、人間的には父イサクから愛されたが神に従わなかったエサウではなく、母リベカと共に神を重視したヤコブが器として用いられたということです。

 このようにイサク、ヤコブの例を出してイスラエル全てではなく、御心にかなう者が用いられたというのです。14節~18節(朗読)であらためてそのことを明らかにし、神は、イスラエルの中でも御心にかなう者たちを通して、救いのご計画を行って来たと言うのです。

 何故こんなことを言うのでしょうか。先程も言いましたが、イスラエルの人々はこれまでややもすれば民族として選ばれたことを誇る民族主義に立って、神の御心を誤解したが、これからはそんな考えを持たないようになるため、そしてもはや大切な神の御心を誤って受けとめないようになるためです。そして頑さが砕かれて、謙遜になり、御心に従順になり、世界の救いに貢献するためです。この一番大切なことを確認することによって今後の彼らの歩みのために道備えをしようとしたのです。

 

◆(終わりに)本当に愛するとは

 この個所からどのようなことを教えられるのでしょうか。一つは同胞に対する深い思いです。

現実のイスラエルの人々は福音に反対し、宣教者や信者を迫害しており、率直な気持ちではとても愛することが出来ない人々でしたが、彼らこそ福音を知って欲しい、そのためなら自分が最も大切にしているキリストにある神の愛から引き離されてもよいという、一方において神の愛、又他方において反対する者たちの姿、状態をよく知っている者としての思いです。

 もう一つは、冷静さです。上記のように同胞に対する心の奥底からの慈しみを覚えていますが、パウロは流されてはいません。感情を中心とし、行動するなら却って彼らに最も大切なことを伝えることができないからです。ここに祈りの人の姿があります。人は得てして心を寄せすぎて、その相手と同じ思いになり、問題の本質、又問題からの出口が見えなくなって共に混乱するのですが、御心に従う者は立ち止まり、祈り、神の導きを追い求めます。そして相手に対して御心に従うことに真の生きる道があると示すのです。

 愛は相手と一つ心になることではありません。主にあって相手と繋がることです。そうする時に相手も生きるのであり、自分もたえず新しい思いと力が与えられるのです。気になっている人にどのように接したら良いのか、この個所は私たちにとても大切なことを示唆しているところです。哀しみを受けとめながら、主に祈り続けることです。それが全てを委ねる愛の姿であります。