神のかたちの贖い

川口 昌英 牧師

聖書個所  創世記126~27節 

中心聖句  

神はこのように、人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、

男と女とに彼らを創造された。          創世記127節        

 

説教の構成

◆()特別な存在と認めるときに

 この間、NHKで面白い番組を見ました。目立つ成果をあげ、注目されている活動、取り組みを紹介する番組ですが、その日は千葉県のあるディケア施設をとりあげていました。そのディケアは通常あるものとは非常に異なっています。出来る限り通っている人々自身が全て自分でするようにしているのです。車から降りる時も、施設内を歩く時も職員は危険がないように寄り添いますが、手はぎりぎり出さないようにしています。驚いたことに昼食も通常の施設は座っているところに同じ食事を運んでもらって食べるということが多いのですが、そこはいわゆるバイキング形式にして自分で食堂へ行って、食べたいものを自分でとるようにしています。当然、スムーズに出来ない方もいるのですが、時間がかかっても職員はじっくり待つようにしているのです。

一日の過ごし方も決められた予定を皆が同じようにするというかたちではなく、趣味、軽いスポーツ、麻雀などのゲーム等何と200ぐらいのプログラムが用意されていて、来た人々がその中から自分が今日したいことを選び、登録し、行うというものです。又施設内に敢えて階段を造って昇り降りの訓練をしたい人がそこを使っているのでした。

 こうした方針をとるようになってから多くの人が本当に変化しているとのことです。料理を教えていたある婦人は病気になり、右手が使えなくなり、好きだったことができず希望を失っていたのですが、左手を使い、料理をするようにアドバイスされ、さまざまな工夫をするようになり、近所の人々にも開放されている施設の中で再び料理を教えるようになり、生き甲斐になっていると話していました。又ガラス工芸が趣味だった男性はそれを聞いた施設側が用意したガラス工芸作業をするようになってある時に熱中して気がつかないうちに車いすから立っていたとのことです。そして今では歩くようになり、多くのガラス工芸品を作りにうちこんでいるとのことです。

 当然、沢山の手を必要とし、ボランティアの助けもあるのですが、疲れ気味と言われています働いている職員たちもとても明るい表情をしています。普通の考えと反対です。通常はなるべく危険のないように、また出来る限り手助けするという考えによって運営されているのですが、そこは来ることが出来る人なら、どれだけ高齢であっても、また体が不自由であっても出来る限り、自分で決め、自分で行うようにしているのです。

 これはリハビリ理論のことであり、又おもに身体のことであり、直接聖書の話とは関係がないように思うかもしれませんが、実は深いところでは相通じるものがあると感じました。中心に認めること、尊重するという考えがあると思えたからです。少し話が変わりますが、英語でエデュケーション、日本語では教育ですが、元々はご承知のように引き出すという意味です。与えるとか教えるとかということよりもその人の能力、賜物を引き出すようにすることです。私はこの施設の取り組みにとても驚き、そして大切なことを教えられたように思います。人は存在を尊重され、大切にされる時に大きな力が引き出されているからです。

◆(本論)人の元々の姿

本日開いている個所は、この講壇から何度かお話したことがありますが、聖書全体の基礎である、元々、人はどのような存在であるのかが明らかにされているところです。伝道説教としてこのところから語るように導かれた時、まず思い浮かんだのはこの施設のことでした。人は、例え病気になり、高齢になっても認められ、尊重されることによっていきいきとなる存在だということ、即ち、元々特別な存在であるとあらためて思ったからです。偶然に生まれ、又意味もなく生きている存在、従って病気になったり、高齢になると生きる喜びを失うのが当然の存在では

なく、生まれたことも生きていることも意味がある特別な存在であることをはっきりと知ることができたからです。

 本日の個所において、人は神のかたちとして創造されたとあります。又やはり人の創造について言われている27節では「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」と記されています。神のことばである聖書は、人は、創造主である神によって、神の息を吹き込まれて、神のかたちとして造られたとはっきり言います。実際は一つの理論にすぎないのですが、現実には真理として教えられているような、決して偶然に生命が発生し、原始的なものから段々と高等生物に進化し、ついに人間になったという目的、意味もなく存在しているものではないのです。

 人は元々このような存在であるということは高齢になり、又病気になるという大きな困難を経験している人にとってだけでなく、生きる意味を見いだせないでいる若者にとっても、又置かれている状況が厳しくどこにも生きる喜びを感じられないと思っている人にとっても人生について考える時、大きな意味を持ちます。尚、簡潔に説明しますと、神のかたちとは神によって命が与えられ、生きる目的が与えられ、愛されている、又神を基準にして、神と親しい交わりのうちに生きる存在ということです。このように、人は本来すばらしい、神の与えたもう喜びと希望に満ちていたものであり、従って創造主である神との間には少しも暗いものがなかったのです。

しかし、現実には今日見て来た通り、この国の多くの人々が感じているように老齢になったり、又病気になったりすると喜びや希望が少しも持てないのです。又若くても生きる目的が持てず、虚しい思いに襲われ、さまざまな理由で恐れを感じているのです。全ての人が自分に対してすら不安を感じ、他の人との関係で苦しみ、罪の実を結ぶ生活をしているのです。目を社会や国際関係に転じても規模は変わりますが、突き詰めるならば同じような状況が展開されているのです。どこにも神のかたちとしての人、又そのような姿を持つ人同士の関係を見ることができないのです。何故元々は、神の息が吹き込まれ、 神のかたちとして造られたいのち、喜びと希望に満ちていた存在がこんな現実になっているのでしょうか。

 多くの方々にとっては言うまでもないことですが、創世記3章にある出来事が起こったからでした。巧みなサタンの誘惑によって、自らが神のようになりたいと思い、神の命に背いた結果、人にとって最も大切な神との関係が断絶し、本来の居場所を失い、そして生きる目的も喜びも失い、又裁きとしての死を受ける、罪と死に支配される人生になったのです。そして全ての人がその罪の性質をうけつぎ、罪人として同じような罪の実を結ぶ生き方をするようになったのです。

◆(終わりに) 神は罪の贖いをなされている

   罪は観念、又気にする人だけのものではありません。能力や環境に恵まれている人は関係がないという性質のものではありません。人の存在の根源からはずれているという人生や社会全体の問題を考えるうえにおいて、最も重要な問題なのです。実は、人間社会の問題の中心にこの罪、神のかたちとしていのちが与えられていながらそれを無視し、自分を中心として生きるという罪の問題があるのです。それほどまでに大きな問題であるのです。このように自ら罪をおかし、創造主である神に背いた人でありますが、神は見捨てず、救いの御技のためにイスラエルを選び、神の民とし、律法を与え、そして最終の時が満ちた時にご自分の御子イエス・キリストをこの地上に救い主として送られ、その主が私たちの罪の贖いのために十字架刑を受け、三日目に甦り、完全な罪の赦しを与えてくださっているのです。私もよくお話しますが、ローマ58節のことばによって、この神の深い愛を知った時に、本当に自分の生きる中心が変えられました。生きる目的、意味があることをはっきり知ることができたのです。どうぞ、まだこの神の招きを受け入れていない方は、是非、方向転換をして神のもとに立ち返り、本来の神のかたちを持つ者としての生涯を送っていただきたいのです。罪の深刻さに気づき、神の愛の豊かさを知って欲しいのです。