圧倒的な勝利者

川口 昌英 牧師

聖書個所 ローマ人への手紙831~39

中心聖句

 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことにあっても、圧倒的な勝利者となるのです。   ローマ人への手紙 828

 

説教の構成

◆()この個所の意味について

 本日の個所は、「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」(30) 神は選び、救いに入れてくださって終わりではなく、その後の信仰生活をも導き、最終的に真の栄光、主と似た者と変えてくださると確認したことに続いて、神が味方であるならだれが私たちに敵対できるだろうと勝利が約束されている信仰の生涯のすばらしさについて強調しているところです。

 パウロは、32~34節でその根拠を示し、どんなものの中にあっても主を信ずる者は圧倒的な勝利者となり、それゆえ私たちを主キリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできないとクリスチャン人生のすばらしさについて語ります。(35~39)

◆(本論) 圧倒的な勝利者となる約束

まず始めに確認しておきたいのは、パウロはこれらのことを主を信じる者たちが厳しい状況、苦しみの中にいることを充分認識しながら語っていることです。信仰者の置かれている現実を知ったうえで、神が信仰生活が導き、最終的に栄光を与えてくださる味方であるなら、だれもなにもキリストにある者を打ち負かすことが出来ないと言うのです。

   私たちはともすれば、圧倒的な勝利者(勝利者以上の勝利者) となるとか、どんな被造物もキリストにある神の愛から私たちを引き離すことはできないというような最上級の表現を見ると、特別恵まれた、特別の人のことを思いがちですが、決してそうではないのです。むしろ今、困難、苦しみの中に置かれている信仰者について言われているのです。私はこの認識はこの個所を理解するうえにおいて非常に重要と考えます。

 

続いて、圧倒的な勝利者となる約束が与えられているその根拠をいくつか示します。まず、神が信仰生活を導いておられ、主と似た者になるという真の栄光を与えてくださるからだと言います。神ご自身が味方として共におられ、闘って下さることです。このことは前回見た通りです。

 二つ目は、「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ、死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(32) と言われていますように、一人ひとりが救われ、新しい人生を送るために、御子という最も大切な存在を惜しまず犠牲にしてくださるほど愛してくださった方が、今後、主にあって生きるために必要なすべてのものを惜しんで与えないということがあろうか、いや御子と一緒に(御子を与えるほどの愛と一緒に) 必ず必要なもの、力を与えてくださると言います。

 同盟基督教団に勿来(なこそ)福音キリスト教会という福島県いわき市にある教会があります。東日本大震災にみまわれ、少し離れていますが、原発事故の影響も心配されている教会です。その牧師が東北で震災復興活動している団体の活動報告誌で「原発に向われたキリスト」と題する説教を寄せています。震災発生の頃、原発事故の危険が迫って廻りの多くの人々が避難し、又知人からも避難場所を用意していると言われる中、懸命に祈ったというのです。そしてその祈りを通して、主の「わたしは危険の中にいる人々と共に歩む」という御声が聞こえたと確信したので、その地に留まり、教会を拠点にして地域に対する支援活動を積極的に行う道を選び、物資の配給や教会に足を運んだ人々を暖かく迎える活動をして来たと言うのです。自分がそのように出来たのは人間的力ではなく、祈りの中で神が与えてくださったものと言います。

 一人子さえも惜しまない程の神の愛、そして人を罪と死の支配から救いだすために十字架に向われた主イエスを本当に深く感じ、力が与えられたと言うのです。同じように、被災した多くの教会が自ら大きな被害を受けながら、地域や被害を受けた人々に仕える働きをしたのです。教会や信仰者の中心に神の愛があるからです。この愛に生かされて今も被災地の諸教会や全国から集った人々は本当に大きな働きをしているのです。

 三つ目は、信仰者を訴える者がいても或いは根本的な罪の赦しの問題を問う者がいても、 神が義と認めてくださり、又私たちの罪のために死んでくださった方、いやよみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、とりなしていてくださるからです。私たちは苦しい局面に陥った時、信仰そのもの、罪の赦しそのものに自信を失いがちですが、神ご自身が義とされ、大きな犠牲を持って罪を赦してくださり、今も御座においてとりなしをしてくださっているのです。ですから、いくら訴える者がいても打ち負かされることはないのです。これも大きな恵みです。

 このように、神が味方であり、また一人子を惜しまない程の愛が与えられていますから、そして神が一方的に義としてくださり、信ずる者たちの思いを受けとめてくださっていますから、キリスト者に敵対できる者はだれもいないとはっきり言うのです。

 

こうして、私たちは主を信ずる者なら誰もが経験するさまざまな苦しみ、痛みを与えようとするあらゆるもの中にあっても圧倒的勝利者になると言います。(35~37) それらにあっても神の救い、愛を受けている者は勝利者以上の勝利者、圧倒的な勝利者であると言い、そして結論のようなかたちでどんなものも私たちをキリストの愛から引き離すことは出来ないと明言します。

 38~39節にあげられているものについて、注意すべきは悪いものばかりでないことです。むしろ本来良いものがたくさんとりあげられているのです。死は最後の敵と言われ、最もおそろしいものですが、いのちとあるのは生きる目的と喜びを知った生涯です。本来すばらしいものです。又、御使いも言うまでもありません。更に権威ある者、これは神によって立てられた者です。その他「今あるものも、後にくるものも、力ある者も、高さ、深さも」と言われるものもどれも人にとって必要であり、喜び、力を与えるものです。即ち、パウロは人に恐怖の思いを抱かせる最後の敵といわれる死だけでなく、反対に人にとっては深い喜びを感じさせる生涯も、聖さを感じさせる存在も、神によって立てられたものもそのほかどんなに必要であり、すばらしいものであっても、私たちをキリスト・イエスにある神の愛から引き離すことはできない、それほど主を知った救いの恵みはすばらしいと断言するのです。

 

◆(終わりに)成功と勝利

 どんなに攻撃、苦しみを与えようとするものがあっても主にある者はそれらすべてにおいても圧倒的な勝利者となる、又どんなものもキリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないと力強く宣言するこのところは、ローマ書全体のクライマックスのような個所です。 

 それなのにあまりにも淡々とお話したかも知れません。ただ、そのように話して来たのは、ここで明らかにされている喜びや恵みを軽く見ているゆえではありません。そうではなく、ここで言われている勝利者となるという約束が私たちの人生においてどれほど確かで豊かなことであるのかをしっかりと覚えたいと願ったからです。

 お気づきのように人生の成功者と勝利者は違います。弱く、孤独の中に生き、挫折を経験する者は成功者と言うことはできません。しかし、神はさまざまな理由により、例えそのように成功する人でなくても、勝利の生涯を与えてくださるのです。それはキリストの愛を知ったゆえです。

そして、これこそ何物によっても決して奪われることがない幸いな生涯です。この世的な成功が不安定であるのに対し、神が与えてくださるこの勝利は決してゆるがされることがないからです。